雪之丞後日
三上於菟吉
芝居者闇太郎
大阪新町の、門並み茶屋があるその一軒の、「門柳」の格子戸を、中からあけて、
「じゃあ、また来るよ。」
お近いうちにという声におくられて、これは江戸ッ子、押もおされもせぬ芝居者、闇太郎が唐桟がらの羽織着附け――
「ヒャクショイ、いやに室の中が暖かいと思ったら、外の風が身にしみる。」
本当に、春の夜寒は格別だ。もう四ツも過ぎていようか、なんとなく軒並にならんだ軒燈も眠げに、巷路を吹き過ぎる風は北東から襲ってくる。闇太郎は身をつぼめて急ぎながら、
「此方が芝居者で、江戸へ便りがあるというので、またあの連中から預りものをしてしまったが――おれも芝居道に足を踏み込んでいなければ、こんなものの使いなら、自分でやってのけるがなあ。まあ好い、懇意な時蔵が行くんなら、これは長州侍から預った手紙で、たしかにお前へ届けたぞと言ってやれば、それで役目はすむことだ。おっそろしく吹きやあがる。」
と、きこえぬほどの独りごと、
「なんしろ、雪之丞の江戸行きも、二度のお目見得、帰り新参という奴で、江戸中が湧くのはわかってるが、おそくも来月か、さらい月は乗込ませてえものだが、太夫もあの体じゃあなあ――」
横っぷきに吹かれながら、とある小橋へ差かかる。ここらは灯も遠く、なんとない暗っぽさだ。ところが、何時後を附けて来たものか、黒い頭巾、黒の羽織、黒っぽい袴という恰好の二人の武士が、急に、タッタッタッと闇太郎の前後にせまって来た。
「新町の門柳で、預って来たものを出して貰いたい。」
その一人は、けわしく言って、大刀へ右手をかけた。
「こいつあ驚いた。」
闇太郎は、素早く体を橋の欄干へとひいて、
「なるほど、あッしが、新町で、ちょいとばかり遊んだのは、こりゃあ本当だ。そらね、この通り酒っくさいし、女の匂いもすらあ。だが、預りものなんざ、なんにもした覚えがねえ。人違いじゃありますめえかね。」
「四の五の申すな。先方は長州の侍だ。おれはたしかに今夜、あの侍が、貴様を招んだことは承知の上だ。さあ、出せ、出してしまえ。」
侍は、ぐいと眼を見張って叱咤する。連れ侍が、これも闇太郎を逃してはならないと押並んで、
「調べあげてあるのだ。出せといったら出せ。」
おっかぶせたもの言いを、闇太郎は、さも呆れた顔で、
「そいつあ、ちっとばかり御無理じゃありませんかね。あの妓が、あッしが江戸ッ児なんでね、小指を出して、さあ斬ろうかといったものの、そんなこたあ、憚りながら食傷しているってんで、逃げて来やしたが――」
大刀の柄へ手をかけていたのを、二三寸抜きかけて、
「黙れ、当方の申すことだけを答えろ。さあ、手紙を出せ。」
闇太郎は、人通りのない小路を、向うからやってくる二三人の人影をみとめた。これも新地あたりを素見いて来た帰りでもあるのだろう。小唄をそそっているようだが、侍たちは、闇太郎を追いつめるのに夢中だ。
今にもきっぱなそうとする侍を、闇太郎はじろりと一瞥して、
「無理を言いなさんな、知らねえことは知らねえ。」
と、そう言ったとき、後の方の年若侍が、
「エイ面倒だ、叩き斬ってやる。」
と、斬刀一閃――闇太郎は素早くかためた拳固で、相手の利き腕を打って身をかわした。
「こいつあどうも、わけのわからねえ人たちだ。」
二刀目がたたみ込んでくるのを、何処をどう体をひねったか、其奴は欄干をどんと跳ね越して、堀の中へつんもぐった。
鯉口を切っていた年上の武士は引きぬいた。大きな凄い眼を、真赤に充血させて叫んだ。
「貴様は、何処かで一度見た奴だ――そうだ、たしかに見た奴だ。」
と、突然、ギラギラと、夜目にも彼の怒りが燃上るのが、闇太郎にも知れた。彼は、何事か思い出したように、
「うぬ、これを食らえ。」
と、鋭い気合で、闇太郎の小鬢をかすめ、長刀を振りおろした。
闇太郎は、この男が、自分の体構えに見覚えがあるといったのを、そういえば、俺にも何か見覚えがあるようだと思いながら、激しく打下してくる刃の下をかい潜って、
「そうか。そういえば俺の方にも、なんだか覚えがあるぞ。」
と、言いかけると、先方は、遮に無に、苛って斬ってくる。闇太郎はこの男を思い出そうとした。だが、しかし、さっきの通行人どもは、月のない夜の、遠い灯にこっちの姿を眺めたと見えて、
「やあ、喧嘩だ、喧嘩だ。」
「刀を抜いて、人を斬ろうとしているぜ。」
「行って見ろ、行って見ろ。」
そう叫びながら、此方をむいて駈けてくる。
闇太郎は侍の顔を見定めようとするのを断念した。此奴にかかわっていては、往来の人たちに見とがめられるだろうし、それに、いつか、雪之丞が、芝居者になった以上、一切持ってはならないと、堅く誓わせて匕首も持たせないから、これは早いところ、この侍にも水雑炊を食らわせた方が好いと思った。そこで、
「ヤッ。」
と、いう掛声と一緒に、薙いて[#「薙いで」の誤りか]くるのをやりすごし、附け入ると刀をひらりと※[#「てへん+宛」、第3水準1-84-80]ぎとって、そのまま、
「そら、たっぷりと、二人でおあがり。」
と、ずでんどう。侍は急に闇太郎の手を離れて、どぶんと水煙りをたてて、堀のなかへ落ちこんでしまった。
「だいぶ好い刀だが、こいつも一緒に――おい、返したぜ。」
と、刀も川の中に投り込んだ。
通行人たちはもうそこまで駈けて来た。
「やった、やった。川のなかへ斬りこんだぞ。」
と、罵り喚くのをあとに、闇太郎は一散に橋を渡って身をくらました。
闇太郎は、長くは駈けもしない。とある角を曲ると、平常の歩きぶりになって、道々も今の侍のことについて考えている。
「えいと、あれは、何処の侍だったろう。」
ふと、十四五年前の、忘れもやらぬ無念な追憶に触れると、彼の心は飛上った。
「あッ、そうだ。あれは、ことによると佐伯五平だぞ。」
彼は、ふッと、唇を噛んで立止った。もう道頓堀近くまで来ていた。暗い闇だが、眼の前には、雪之丞が勤めている中の芝居の、櫓そなえをした棟がよく見えるのを睨んで、闇太郎はうめいた。
「あれは、たしかに佐伯五平だ。いま思出した。俺は、十五かそこらで、あいつは立派な武士だった。俺は、あいつに歯が立たなかったのだ。」
闇太郎は、忘れるともなく忘れていた、鉄砲組同心の衣笠貞之進を、切腹までさせた佐伯五平が、どうしてこんなところへ来ているのかと考えた。しかも、貞之進という男は、この闇太郎――つまりその頃は、貞太郎といった忰の父ではないか――闇太郎は、自嘲するように舌打ちをして、腕を組み直した。
「おれもよっぽど間抜けな奴だ。」
職務上の争いから、父親は腹を切ったのだとはいえ、その恥辱を、この儘ではおけなくなり、総領息子貞太郎は、相手の五平に斬りかけたのだが、残念ながら力及ばず、とうとう家を飛出して、いつか、ならずものになってしまったということは、考えて見れば、まず浮世を知ったというものだった。しかし、その敵を、現在眼の前に見た以上、こうしているのが順当だろうか――
「いや、そうじゃあねえ、速るこたあねえ。今日の一件から見ると、門柳に来ている長州のおさむらいさんが、芝居へ使いをだしておれを呼びよせたことを、よく知っているから、おれが、中座の役者の内の者だということはわかっている筈だ。と、すると、先方でもこの儘じゃあすっこむめえ。まあ、この方角のこたあ、まずこうしておいてと――」
と、彼は、寒風が、夜の空へ咲かした、星の顔を見あげると、
「どれ、案じているだろう、早く雪さんに顔を見せようか。」と、急ぎ出した。道頓堀からは橋一つ、笠屋町の細小路の、雪之丞の住家へと帰る。
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作者:三上於菟吉
底本:「オール讀物・時代小説のヒーロー50傑」(1989年10月臨時増刊号)
入力:カミコロ様(資料庫)
http://www.geocities.co.jp/Hollywood/7675/top.html
※2019年 3月31日 Yahoo!ジオシティーズの終了に伴い閉鎖されました。
校正:神崎真
※このテキストは、「資料庫」のカミコロ様が入力されたものを元に、神崎真が校正、ルビや訳注をつけたものです。
校正はしておりますが、一部誤字が残っている可能性もあります。あしからず、御了承下さいませ。