卷煙草の灰
三津木春影
四、貪り吸ふ博士の卷煙草……其眞意果して如何
夫は可成に廣い室であつて、夥しき書籍が所藏されてある。書籍は棚に溢れても居れば、隅々に積まれてもあり、本凾の裾にまでグルリと立て列べられてある。室の中央に一臺の寢臺があつて、其上に枕に身を支へつゝ此家の主人樹立常春氏が在つた。
中澤醫學士の目を駭かしたのは、主人の世の常ならぬ容貌風采である。今しも入り來つた博士等の方へ向けられた其顏の痩せ衰へて鷲の如く尖つた傷しさよ。濃く長き眉毛の下に一双の窪みたる眼窩あり、眼窩の底に刺す如き黒き瞳が輝いてゐる。頭髮も口髭も皆白い。たゞ口髭の方は、唇の周圍を汚した黄き色にて穢くなつてゐる。其唇には一本の卷煙草が光つてゐて、室内の空氣が煙草の濛々たる煙にてムツとするばかり。主人が今卷煙草を口から放した、其手を見れば、矢張りニコチンで黄く汚れた手であつた。
警部の紹介が濟むと、主人は博士等に向ひ
「呉田さんは煙草を召上りますか。何卒一本お取り下され。お連れの方も何卒。お勸め致すのは自慢ではありませぬが、これは埃及製の上等なものでありますからな。一時にどつさり買ひ込みますが、さて二週間とは保たぬので我れながら閉口です。實に惡い習慣、何と言つても惡癖です。と申すものゝ、かう年寄になりますと樂みといふものも少うてな、先づ煙草と、著述――これが拙者老後の唯一の慰みでありますのぢや。」
呉田博士は勸めらるゝ儘に、一本の卷煙草を吸ひつけ、やをら室内へグルリと矢の如き視線を走らせる。
「煙草と、著述――ところがもう樂みは煙草ばかりになりましたわい。」と主人は言葉を續け「あゝ、何といふ不幸な出來事で邪魔されたもので厶らう! 誠に思ひ掛けぬ恐しい今度の災難。あのまア立派な青年が殺されるとは! 全く彼は數ヶ月間の練習で一かどの役に立つ助手となりましたものを……呉田さん、一體此事件に對する貴君の御意見は何のやうでお有りでせう。」
「まだ何とも見込は立ちません。」
「貴君のお蔭で事件が解決されますならば實に有難いことで有ります。我々は一切五里霧中に迷うて居るのですからな。拙者のやうな哀れな病人の本蟲にとつては、誠に心も顛倒致すほどの打撃で厶つた。もう/\物を考へる才能も失くなつて了うた心地がします。併し貴君は活動のお方ぢや――事務家で有りなさる。拙宅の事件なぞは貴君にとつては所謂朝飯前の一瑣事で厶らう。何のやうな急變にも應じられるだけの用意がお有りぢやらうと思ふ。貴君のやうな方の御盡力を願ふのは、何ぼう氣強いか知れませぬ。」
斯く主人公が物言ふ間、博士は室の片側を彼方へ行つたり、此方へ行つたりしてゐたが、中澤助手が氣付くと、博士は非常な速力で卷煙草を吸つてゐる。多分は埃及産の上等物を饗せられた主人の好意を無にせまい爲めでも有らう。
著述家は尚ほも言ふ。「ほんに拙者にとつては破壞的打撃で厶つた。あれは拙者の畢生の大著述です――其處の小さな側卓の上に載せてある其原稿がですな。支那海には昔から海賊が出沒し居る、その海賊の歴史的研究と、今で申さば彼等の革命黨的の事蹟とを論述致したものであつて、拙者はこの完成に滿身の精力を注いで居りましたがいや、あの役に立つ助手に死なれては、今日以後拙者の病弱の健康で目的を遂げられるか何うか危くなつて參りましたわい。オヤ/\呉田さん、貴君もなか/\の煙草好きぢや、拙者よりも遙に吸ひ方がお早い/\。」
博士は微笑んで「私はこれでも鑒識家でありますからな。」と更に新しい卷煙草を取上げ――これで四本目だ――前の吸殼の火を移して
「承ると、貴君は昨日犯罪の當時はまだお寢み中であつたとの事ですから、何も御存知ないのは當然と思ひます。で、煩はしい質問で御邪魔致す氣はありませんが、たゞ此事だけはお訊ねが致したい。波山助手の最後の言葉ですな――「先生、あの婦人です」と申した――其言葉の裏には何のやうな意味が含れてゐましたらうか、貴君はそれを何と御想像なすつたらうか。」
主人公は頭を振つて「女中のお村は御覽じた通りの田舍者。元來田舍の女と申す者は途方もない莫迦げた事を申します。拙者の考へでは、波山は多分は辻褄の合はぬ囈語を喋り居つたのを、お村奴がそのやうな埒もない文句につなぎ合はせたのでは厶らんかな。」
「それもさうかも知れませんな。すると貴君は本事件については何の御解釋もお持ちになりませぬか。」
「恐らくは偶然の怪我では厶らんかな。恐らくは――自殺でも有りませうかな。世の青年と申すものは皆秘密の心配を有つて居る――精神上の或る惱みですな。さう考へる方が殺人罪と推定するよりは事實に近くは厶らんかな。」
「でも自殺としますと、波山の手にあつた眼鏡の原因は?」
「あゝ、拙者はほんの學生であります――夢を見て居る人間ゆゑ、人生の實際的の方面を説明することは出來ませぬ。併しながら、由來戀愛の抵當と申すものは隨分不可思議な形を取るちうことは存じて居ります。さア/\もう一本召上れ。其樣に煙草が御氣に入つたのは誠に滿足です。そこで、扇子とか、手袋とか、眼鏡とか――いやもう死んで行く者が、戀人の記念として持つてゐる物には我々の思ひも及ばぬヤクタイもないものが厶る。此警察のお方は昨日から芝生の上の足跡を主張なすつて居らるゝが、足跡なぞと申すものは兎角何のやうにでも間違ひ易いものであるし、また書齋の小刀のことなぞも、波山が自刄して倒れる拍子に遠く放り出したものでないとも限りません。拙者の申すことは定めし貴君方の御目からは子供らしくもありませう、が、どうも拙者には波山が自殺したのであるやうに思はれてなりませぬのでな。」
博士は主人公の此主張に撲たれたらしく、尚ほ暫時室内の散歩を續け、ぢつと思案に耽りつゝ、一本また一本と卷煙草を貪り吸ふ。やがて
「樹立さん、伺ひますが、あの御書齋の書擡の開扉の中には何をお收ひなすつてあるのですか。」
「あの中ですか。一向盜賊の眼を惹きさうなものはありませんな。樹立家に關した書類、家内の手紙、履歴
書、證明書等のみであります。鍵はこれです。なんなら何卒お調べ下され。」
と差出す鍵を博士は受取つて眺めたが、直ぐに返して「どうも、これが有力な手掛にならうとは思はれません。寧そ少しの間お庭でも散歩させて頂いて、頭腦の中の思想を纒めませう。貴君の主張なさる自殺説についても成程研究の餘地がございます。折角お寢み中を御邪魔致して何とも失禮、其代りもう午前中は御邪魔致しますまい。午後二時になりましたらばまた一寸伺ひます、其間にはなにか新事實が起るかも知れませんから、そしたらそれを御報告致しませう。」