<<戻る  目次  次へ>>
 卷煙草シガーの灰
 三津木春影
 

   三、鍵穴の周圍の掻痕かききず……殺人犯現場げんぢやうの臨檢

 翌朝博士等が品川を發した頃は、暴風雨あらしこそは止みたれ、東京灣の浪黒なみくろく、晩秋の日輪屡々しば/\陰欝いうんうつの雲にざされ、風物うた荒寥くわうれうの感があつた。
 川崎の停車場ていしやぢやうから連ねた三だいの車は、刈り盡された稻田いねだや落葉する丘陵の間の里道りだうを進み、間もなく吉田の町端まちはづれなる樹立氏の屋敷に着いた。雜木ざふぼくの丘を負うて立つた和洋接續の其家そのいへの門に車を捨てると、殺人犯のあつた時から日夜警戒して居る一人の巡査が立ち迎へて山賀警部に敬禮する。
「どうだらうか、何か新事實ががつたらうか。」
「いえ、何も擧りません。」
「擧動不審の者、又は日頃見掛けぬ人物が近所を徘徊した形跡もまだないかね。」
「ございません。停車場方面も再應さいおう調査致しましたが、昨日さくじつは特別に目を惹くやうな人物は更に乘降がなかつたさうであります。」
「附近の宿屋、下宿屋などの調査は何うでした。」
「それも致しましたが何の手掛も得られませんでした。」
「それは困つたな。」と失望らしく言ひ捨てゝ警部は博士等を案内し「これが昨夜申上げた園徑にはみちです。こゝに何の足跡もなかつたことは私は飽迄あくまでちかひます。」
中央まんなかになくても、中央の芝生の上にはあつたのですな。それは芝生の何方側どちらがはですか。」
此方側こつちがはでした。つまりみちと花壇との間のこの狹いふちですな。あゝ、今朝はもう見えませんが、昨日はたしかに有りました。」
「フム、フム、何者か通つた/\。」と博士は芝生の上にこゞみながら「婦人をんなの先生、よほど用心して足を下ろしたと見える。さもないと、此方こつちへ外れゝば徑の上に足跡がつくし、此方だとやわらかな花壇の土に矢張りつくからね。」
「さうです。意外に落着いた犯人と思はれます。」
 級に熱した色が博士の眉宇を掠める。其色を中澤醫學士がて取つた。
「山賀さん、貴君あなたは犯人がやはり此徑このみちを戻つたに違ひないと言はれましたね。」
「さうです、他に退路にげみちはありません。」
「やはりこの細い芝生を踏んでゞすか。」
「私はさう信じます。」
「フン! さうとすればはなは美事みごとな離れわざをやり居つたものぢや――非常な離れ業である。そこで、漸く徑を通り終へましたね。では先方さきを檢べませう。この入口のは多分始終開け放しのまゝでせうな。すると犯人は何の苦もなく入られたわけである。そこで兇行の原因であるが、私の考へでは、其婦人は殺人の目的なぞで忍び込んだものではないらしい。若しさうであるとすれば、書齋に備へ付けの書擡かきものだいの上の小刀ナイフなぞを取上ぐるよりは、もう少し有力な武器をあらかじめ用意して來た筈だと思ふ。婦人はこの廊下を進みはいつたのですな。花蓙はなござの上に何の足跡も殘さずに。そしてこの書齋へ入つたのですな。書齋にはどれほどの時間を居つたらうか。それを判斷する材料はにもないやうですな。」
「いや、五六分間以上は居なかつたらしいのです。昨夜お話致すのを忘れましたが、奧働きのおさいがですな、事件のあつた直ぐ前まで書齋の中を片附けてゐたさうです――左樣二十分か、三十分前迄ぜんまでとおさいが申してゐました。」
「では、それで時間の制限がつきました。婦人はいよ/\此書齋へ入つたと……それからうするか。先づ讀書用よみかきようのテーブルの方へツカ/\と歩いてく。何の爲めにくか。抽出の中の物をねらつてゞはないことだけは解る。いやしくもよそから忍び込んだ者の眼を惹くやうな大切な物が入れてあるならば、抽出は常にぢやうがおりて居らねばならぬ筈ぢや。然るに抽出は平生へいぜい大方おほかた開け放しであつたと言ふところを見ると、まさにさうではない。婦人のねらうたところは其木製もくせい書擡かきものだいの中にある何物かであつたのである。ほオ! そのおもてにある掻痕かききずはそりや何ですか。中澤君、マツチを一つ擦つて貰ひたいな。山賀さん、何故昨夜ゆふべこの掻痕かききずのお話をなさらなんだか。」
 博士が斯く特別に目をけた掻痕かきゝづは、鍵穴の右側なる眞鍮板しんちゆういたの上から始まり、其長さは約四寸ばかり、假漆にすの表へ掛けて引掻ひつかいた跡をそんしてゐるのである。
「私もそれへ氣が付かんではありませんでした。けれども鍵穴の周圍まはり掻痕かききずのあるのは世間普通の事でありますからな。」
「でもこれは新しい跡です、極めて最近のものでありますぞ。御覽なさい、掻かれた跡の眞鍮がピカ/\光つてる。古い跡ならば表面と同じ光をして居らねばならぬ筈である。試みにわしの此レンズをとほして覗いて御覽なさい、そこにも、丁度溝の兩側のやうに假漆にすがついてる。あゝ、そこへ見えられたのは梅田おさいさんですか。」
 一人の物悲しげの顏をした年配の女が書齋へ入つて來たのである。
貴女あなたは昨日の朝このへやの掃除をなすつたか。」
「ハイ、私が致しました。」
「其時、この掻痕かききずへ氣が付きましたか。」
「いゝえ、ちつとも存じませんでした。」
「多分はさうであつたでせう。其時そのとき既に掻痕かききずがあつたとすれば、拂塵はたきが掛つたから、今頃こゝに假漆にすの屑が殘つて居る道理がない。して見ると貴女の掃除後にこの掻痕かききずは出來たものである。そこでこの書擡かきものだいの鍵は誰が保管してゐますか。」
「旦那樣が始終時計の鎖におつけでございます。」
普通あたりまへ構造こしらへの鍵ですか。」
「いえ、なか/\難しい入組んだ仕掛でございます。」
「宜しい、貴女はもう引取つて宜しい。さてまた少し解つて參つたよ。婦人は此室このへやへ入つた、眞直まつすぐ書擡かきものだいへ進み寄つた、そしてそれを開けに掛つたものらしい。一生懸命に開けやうとしてもがいてゐる最中に、ヒヨツコリやつて來たのが助手の波山なみやま夏雄なつをである。失敗しまつたと思うて、急いで鍵を拔かうとする表紙にこの掻痕かききずをこしらへた。波山は見るとしからぬ曲者がゐるから、飛び掛つてムンズと捕まへると、婦人はそれを振り放さうとする一念で、夢中のまゝ、手に觸れた物を掴んで青年を引叩ひつぱたいた。豈計あにはからんや、手に觸れたものは例の小刀ナイフであるから、頸首えりくびへ刺さつて一撃で致命傷、青年がパタリと倒れるのを見ると、婦人は目的物を手に入れたか入れぬか知らぬが、兎に角へやを飛び出したのです。あゝ、今度は女中のお村さんがやつて參つたね……」
 警部のあらかじめの召集に應じて、今度は丈の低い、色の黒い女中が入つて來た。
「お前さんが昨日の朝恐ろしい叫聲を聞いてから直ぐ後にだね、何者か其扉そのとを通つて逃げ出すことが出來るとお前さんはお思ひか。」
「いゝえ、到底とてもそれは出來や致しません。誰か逃げ出すと致しましたらば、私が階段を降り切らぬさきに廊下で其者を見掛けねばならぬ筈でございますもの。加之それに、は決して開けてはありませんでした。開いたとしましたらば私に聞えぬ筈がございません。」
「成程、それで加害者の退路にげみちについても制限が出來た。つまり婦人は入つて來た路を又戻つたに違ひない。そこで此方こつちのこの廊下は御主人のへやへ通じてゐるのでせうな、其方そつちほか退路にげみちはなからうか。」
「他には一つもございません。」
「では一つ御主人に御目に掛りに行かう。ほオ、山賀さん! これは頗る大切な事ですな、極めて大切な要件でありますぞ――主人の室へ通ふこの廊下の床にも花蓙が敷いてあるぢやないですか。」
「さうです、が、それが何う致しましたか。」
「此事實と本事件との間に、貴君は何の關係をも認めなさらぬのですか。まア/\併し今それを強いて申す必要もないか。いやわしの見込が間違つて居つたかも知れぬが、どうしても何等かの意味はありさうぢやね。さア我々を御主人に紹介して下さい。」
 警部は博士等兩人を導いて廊下を奧に進んだ。突當りに階段がある。それを登り切るとがある。警部は靜かにを叩いて案内を乞うた。なかから鈍い返事がある。やがて警部は兩人を樹立氏の寢室ねまへと通じた。


<<戻る  目次  次へ>>


目次へ戻る