二、死體の握つた金縁眼鏡……意外なる博士の鑑定
斯く語り終つた警部は、やをら
懷中を
搜りて一葉の
紙片を博士等の前に取出した。それは彼の手に成つた
現場の見取圖であつた。
「無論此は必要の個所のみを寫した略圖ですから、詳細は後刻先生御自身に御檢分を願はねばなりません。所で第一の問題はですな、加害者が屋敷へ
入込んだものでありませうか。それは申す迄もなく此
園徑を通り、
裏扉を明けて入込んだもので
厶いませう。書齋への眞直の
通路はそれが一番で、他の路を取るとすると
頗る折れ曲つた厄介な路を通らねばならぬ事になります。
退路もまた同じ路で有りましたらう。他に二つの路が有りますけれども、其一つは女中お村が二階から驅け降りた時に塞がれて了ひ、
他の一つは直接に主人の
寢室へ通じてゐますから、夫を逃げる譯には參りません。で、私は早速園徑へ眼をつけました。これは
昨夜の雨に濡れてゐますから、靴にせよ、下駄にせよ、足跡なども
判然と附いてゐると思つたからであります。
然るに先生どうでせう、此犯人は餘程用心深い
黒人でありますな。
其徑には
何の足跡もついて居りません。併し路の中央についてゐる一筋の芝生の上は何者か踏んだに違ひない、と申すのは芝草が所々踏み
躙られてありますからで、つまり足跡を
印けぬ爲めの用心からでありましたらう。その踏み躙つた跡が、何だか下駄のやうではなく靴又は
草履、
雪駄の類らしいのでありますが、家内の者は今朝以來誰もそこを通らず雨は夜の
間に降り出したのですから、何れにせよ芝生を踏んだ者は犯人にほかならぬことゝ存じます。」
「一寸お待ちなさい。」と博士が止めて「
其徑は何處へ通じて、距離は何程ですか。」
「往還へ通じてゐます。長さは一丁内外です。」
「門の所か、
若くは往還に足跡がありませんか。」
「不幸にも門の所のは重なり合つて解らず、往還のは
泥土で滅茶々々であります。」
「それは/\! では、芝生の上の足跡は、入つた足跡ですか、
其とも出た方ですか。」
「それが見分けられません、
判然した
輪廓がついてゐませんから。」
「大きい足跡ですか、小形ですか。」
「さアそれも何とも申上げられません。」
博士は
焦つたげに
[#「焦つたげに」は底本では「蕉つたげに」]舌打して「夫以來この
暴風雨だからいよ/\解らなくなつて
居るだらう。所でそれから何うなすつたか。」
「何れにせよ、犯人は注意して外から
忍込んだものと鑑定しました。次には廊下を檢べましたが、これには綺麗な
花蓙が敷いてありますが、矢張り足跡は解りません。廊下の突當りが
現場の書齋であります。書齋は誠に質素な
室でして、主な器物とては
書擡を備へつけた一個の大きな高いテーブルばかりであります。
書擡は兩側に縱に三四個づゞ
抽出が
列んで居り、其
中間に小さな開き戸棚が
穿めてあるもので、私が見ました時は、戸棚には
錠がおりて、抽出の方は開いてゐました。此抽出は格別大切な物をも入れぬ所から、
毎時開け放しになつてゐますさうで、反對に、戸棚の中には重要書類が收めてありましたが、それが
弄られた形跡もない、樹立氏も何も盜られた物はないと明言してゐました。ですから盜賊の
所爲でない事だけは明瞭であります。
さて最後に助手の死體でありますが、これは此略圖の通り、テーブルの
傍、丁度其左の所に倒れて居りました。
刄器は
頸首の後の
右側を刺しましたので、これによりますと無論自殺ではなからうと存じます。」
「助手が
小刀の上にでも倒れぬ限りはですね。」
「
御尤[#ルビの「ごもつと」はママ]です、其考へも起さぬではありませんでしたが、
小刀は死體から數尺の所に飛び放れて落ちてゐました。ですから
小刀の上へ倒れて死んだのでない事は疑ひを
容れません。それにです、最も有力な
證據と申しますのは、被害者の右手にかういふ物が握られて殘つて居りました――」
とて警部は又も一つの紙包みを
取出して夫を開いた。現はれ出たのは兩方の蔓の折れた一個金縁の
眼鏡である。
「波山と申す青年は視力は達者でしたさうですから、これは犯人の顏、
若くは手から掴み取つたものでありませう。」
呉田博士は件の眼鏡を受取ると、非常なる注意と興味とを以て夫を檢べだした。鼻へ
當てがつて
文字を讀んで見たり、窓際へ歩み寄つて暗い
巷の方を眺めたり、電燈の光の下へ差しかざしたりしてゐたが、
軈てふゝと薄ら笑ひをしながら
卓子に戻り、手帳の紙片へ何やら數行の文字をサラ/\と
認めて、警部の
眼前に突き出し
「山賀さん、何かの御參考になりませう。」
警部は怪訝な顏をして夫を讀んで見る――
入用――上流婦人の裝ひせし一婦人を求む。此婦人は鼻著しく厚く、兩眼の間隔狹し。額には皺を疊み、物を凝視する癖あり。肩は多分圓き方ならん。最近數ヶ月間に少くとも二囘、眼鏡屋に赴きし形跡あり。其眼鏡の度強くして特徴あれば、持主を發見するは左迄困難ならざるべし。
博士は驚いた警部と醫學生との顏を笑ましげに打眺め「なに私の推定は至極簡單であるよ。眼鏡は一番好い
手掛であるが、
特けてもこれなぞは
誂へ向きぢや。先づ婦人用のであることは、この
華車な細い
製法と、それから被害者の最後の言葉とから推定しました。上流婦人の裝ひしてゐる事は、贅澤な金縁眼鏡を掛けてゐる事實から
推して間違ひない。また此眼鏡は御覽の通り鼻止めの山が廣い。諸君が掛けたら外れて了ふぢやらう。即ち此持主の鼻たるや頗る偉大である。次に私の顏は比較的
小な方であるが、尚ほ此眼鏡の
各々のガラス玉の
中央へ私の
兩眼が
行かない、漸く
端れの方へ當る位である。して見ると、婦人の
兩眼は鼻の兩側に狹い間隔を以て付いてゐるものらしく思はれる。中澤君、見る通りこれは
凹面であつて、度が非常に強い。
從て此婦人の視力は極度まで
狹められてあるのだから、自然それに順應した肉體的特徴を
有つてゐる筈、即ち額、
眼瞼、肩などに夫が現はれてゐるべきである。」
「成程、先生の御推定は一々御尤もです。」と醫學士が言つた。
「併し、婦人が二度眼鏡屋へ行つたと
仰有るのは
何樣な
根據からでせうか。」
「それも譯はない。こゝを御覽、この眼鏡の山の兩端を……鼻を強く
壓さぬために、
極く/\細いコルクの帶を締めさせてあるではないか。その右の方のコルクの帶はもう變色して
可成損んで
居るけれども、左の方のは新しい。つまり左の方のは一旦役に立たなくなつたから眼鏡屋で新しく取換へたのぢや。而も右の方の古いのも數ヶ月は經つて居らぬ。そして兩方のコルクの帶は同じ形である。婦人が最近數ヶ月以内に、同一の眼鏡屋へ二度赴いたと私が鑑定したのはそのやうな理由からです。」
山賀警部は感嘆の口調で「實に先生の御見込みには
何時ながら
恐入りました。
其樣な有力な證據を握つてゐながら、そこ迄
細に氣附かなかつた私は赤面の至りです。私は只東京中の眼鏡屋を一軒殘らず當つて見やうとは思つてゐましたが……」
「勿論それは必要でせう。所で此事件につき尚ほ何か伺ふことが有りますか。」
「いやもう何も
厶いません。只私は附近の川崎、鶴見等の
停車場、
京濱電車の
停留場等について怪しき人物を見掛けなんだか何うかを探査致しましたが、
何の聞込んだ事も有りませんでした。一
圓合點の
行かぬのは、犯罪の目的が
那邊に在りますか、其動機と申すものが更に私共に解りません。」
「あゝ、それは私にもまだ解らぬ。多分は明朝出動せいといふことになるのでせう。」
「實は御迷惑でない限りは
是非共御出張を願はうと思うて
罷り出た次第で
厶います。」
探偵好きの博士は勿論承諾、
夜も早や一時に
垂んとすれば、即ち明朝を約して警部は別れ去つた。
あゝ、恐ろしき殺人の犯人はいよ/\婦人であらんとは! 博士の推定
當れるや否や。