卷煙草の灰
三津木春影
一、先生!あの婦人です……助手の臨終に不可解の一言
十一月の終わりに近い或暴風雨の晩の事であつた。呉田博士と中澤醫學士とは、電燈の明い一間の中に引籠もり博士は強度の擴大鏡にて或豐臣時代の古文書の斷片を檢査して、其暗號を解かんとし、助手は外科手術に關する最近の條令に讀み耽り、夜の更くるも知らざりし折柄、猛雨と烈風とを衝いて博士邸に乘付けた一臺の俥があつた。やがて案内せられて雨外套を脱ぎつゝ博士等の前に現はれたのは、毎々の事件にて懇意を重ねて居る警視廳の山賀警部であつた。
助手が外套を手傳ひ、椅子を勸むる間に博士は暖爐の火を盛にしたり、卷煙草を勸めたりしながら
「此暴風雨の夜更に見えられたのは、餘程の重大事件でせうな、山賀さん。」
「お察しの通りです。先生は今日の夕刊を御覽になりましたらうか。」
「いや、今日は豐臣時代より以後の事はまだ何も見ませぬテ。」
「實は川崎から東に距る一里半ばかりの所に吉田と申す小さな町が厶いますが、其處で不思議な一事件が起りました。私は本日夕刻電報に接して出張致し、一應取調べの上終列車で歸署しまして、深夜ながら直ぐ樣此方へ上りましたやうな次第です。」
「して見ると、事件の解決がおつきにならない。」
「まるで頭も尻尾も判りません。先づ私の今までの經驗中では前例なき怪事件であります。先生、此事件には動機と申すものがありません。一人の男が殺されたのです――それは事實ですが、何故に犯人が其男を殺さねばならぬまでに立至つたか、其理由が更に見當りません。」
博士は卷煙草を強く一吸ひ吸つて、椅子に背を凭らせ
「ふム、何の樣な顛末か承りませう。」
「先づ順序よく申上げやうならば、斯うであります。今囘殺人の行はれた屋敷へは、二三年以前から樹立常春と申す著述家が住んで居りました。此人は甚い病身でして、始終病床に親み稍や輕快の打は乳母車の樣な物に乘つて下男に押して貰ふか、自分で杖を突き/\庭内を散歩する位が精一パイでしたが、出入の近所の者からは大した學者として尊敬されてゐました。細君は無くて。梅田さいと申す婦人が奧働きをなしお村と申すのが女中を致し、二人とも最初から事へてゐて至極の正直者、此他樹立氏は一年ばかり以前から何か大著述に着手致した所から助手が必要となり、應募者を搜しましたが、最初の二人は不成功に終り、三番目に雇はれたのが波山夏雄ち申して某私立大學の文科卒業生で、これが初めて及第致しました。此波山と申す青年は品性高く、學術も優等、小學中學時代からの學校の褒状なぞも澤山あつて私も實見致しました。助手となつてからも勤勉實直、甞て他人の怨恨を受ける筈のない人物でありますのに、而も彼は今日、不明の理由の下に、主家の書齋にて何者かに殺されたのであります。」
暴風はガタ/\と窓の扉を搖がして吹き付ける。博士と中澤醫學士とは暖爐の前に椅子を引寄せて一心に警部の話を傾聽する。
「恐らく日本國中を搜して歩いても、あの樣な外界と交渉のない家はありませんな。幾月掛けても門を潛る客の姿がないといふ家です。主人は著述で夢中、助手の波山、これまた職務に熱中して一切他事を顧みず、二人の雇女も近所を餘り喋り廻らず、下男の守助は古い兵隊上りの律儀者で、屋敷の隅の別棟に住んでゐる……先づ樹立家の家族と申してはこれ限りで、そして入口の門は吉田の街道を距る事約一丁、※[#「金+饌のつくり」、第4水準2-91-37]を開ければ容易に内へ入られるのであります。一寸お斷はり致しておきますが、此屋敷の主人等の住居の方は、粗末ながら二階建の西洋館なのであります。
さてこれから、本事件の唯一の證人たる女中お村の證言を申上げませう。何でも今日午前十一時から十二時迄の間の事、お村はまだ主人の朝寢をしてゐる二階の寢室にて窓帷を下ろしに掛つてゐました。奧働きの梅田おさいは裏で仕事の最中、そして助手の波山は寢室兼用の居間に引籠つてゐましたが、ふとお村が氣付くと、助手が廊下を通つて、主人の寢室の眞直下に當る書齋へと降りてゆく跫音がする。書齋の扉の閉まる音は聞えませんでしたが、一二分間經つと、階下で恐しい叫聲が致したのです。一種凶暴な悲鳴でしてな、男だか女だか解らぬ奇怪な不自然な叫聲であつて、同時にドスンといふ家中搖れる程の重々しい音がしたと思ふと、それでパツタリ鎭まり返つて了ひました。お村は一時愕然として立ち縮みましたが、軈て勇氣を鼓して階下へ驅け降りて見ますと、書齋の扉は閉まつてある。夫を開けて一歩中へ踏込むと、助手の波山が床の上に長まつて倒れてゐました。一見何處も傷がないが、さて抱き起さうと致しますと、血潮が頸首の片側から流れ出てゐるのを發見しました。傷口は非常に狹いが、深さは深く、頸動脈が切斷された樣子で、兇器が死骸の傍に横つてゐました。それは象牙の柄のついた、硬い刄を有つた流行後れの小形の小刀で、實に主人樹立氏の書擡の上に常に使用された物なのでした。
仰天したのはお村です、最初はもう絶命つたものと思ひましたが、それでもと、書齋に有合ふ水壜を取つて助手の額に打ツ掛けますと、助手は微に眼を見開いて
「先生、あの婦人です。」
と呟き[#「と呟き」は底本では「と咳き」]、尚も何かを喋らうと焦るやうに右手を空に悶きましたが、其儘再びパタリと倒れて、今度は全く絶命して了ひました。
變を聞いて奧働きのおさいが飛んで來る。おさいは二階へ飛び上つて主人に知らせに行きますと、主人はまだ寢衣の儘で床の上に顏色を變へて座つてゐました。何でも恐ろしい叫聲を聞いたから、異變が有つたらうとは思つてゐたとの事、被害者の「先生あの婦人です」と申す最後の言葉をおさいから聞いても、樹立氏には何の事やら見當がつかず、末期の囈語ではないか、波山に限つて人から怨恨を受ける筈はないがと申すばかりで、兎も角もと、下男の守助を所轄警察署へ走らせる、それから警視廳へ急報が參つて、そこで私が出張致したやうな次第でありますが、私が參るまでは現場は其儘でありました。で、私も入口の園徑を誰も通らぬやうに禁じて參りました。先生をお願ひ致す上に夫は極めて必要な事だらうと存じましたからで、實際まだ何一つ動かされてないに相違厶いません。」