不思議の鈴
三津木春影
六 警視廳と外務省へ……大臣の顏が颯と曇つた
倫敦の終端驛へ着いたのは午後三時二十分であつた。飮食塲で忙しく小晝を濟ましてから、眞直に警視廳へと押し掛けた。織部探偵には保村君が既に電報を打つておいたので、彼は我々の來訪を待ち受けてゐた、小柄の狡猾さうな男で、愛嬌氣などは微塵もない鋭い表情をしてゐる。我々に對する態度が明かに冷かなもので、殊に用向きを聞き取つてからはそれが甚かつた。
「保村さん、貴君の方法は伺つて承知してゐます。」と彼は劔呑に言つた[#「劔呑に言つた」は底本では「險呑に言つた」]。「貴君は警察官の集める凡ての報告をいつでも御使用なさるだけの用意をしてお居でなさる。それから御自分で事件を解決して了つて、前の報告をば悉く不信用にさせるといふなさり方でせう。」
「ところが反對にです、過去に私の取り扱ふた五十三件のうちで、私が名前を出して居るのは僅た四件に過ぎなくて、他の四十九件といふものは皆警察官の御手柄としてあるくらゐです。貴君はまだ御若くて御經驗も積まれぬから、その事情を御存知ないのも御もつともぢや。ですが貴君が今度の事件に成効を期せらるゝならば、私と一所に御働きなさるのが肝要で、私に反對なすつては御爲めになりませんぞ。」
言はれて探偵の態度が大分柔いだ。
「願くは一二點、心得になることを承り度いものですな。今度の事件ばかりは何の見込みもまだ立ちません。」
「何のやうな手段を御取りでしたか。」
「小使の丹造を探偵して見ました。彼奴が好成績で[#「好成績で」は底本では「好成蹟で」]除隊になつた事は確で、他に格別怪しむべき點もありません。が、女房のお輪といふ奴は強者ですな。存外この事件についても知つてゐる事がありはせぬかと私は睨んでゐます。」
「お輪は探偵して見なすつたか。」
「女探偵を一人放つて見ました。お輪は酒を飮みますね。其他にどうも餘り要領を得ませんでしてな。」
「借金取に迫られたとかいふではないですか。」
「さうです、けれども勘定は濟みました。」
「金は何處から手に入れたでせう。」
「其御不審は御無用です。恩給金を丁度それに宛てたやうです、格別財産が有りさうな樣子も有りませんから。」
「栗瀬が珈琲を欲しいとて鈴を鳴らしたらばあの女が二階へ登つて行うたさうぢやが、その理由については何と申してゐますか。」
「亭主が大層疲勞れてゐたから、骨休めをさせやうと思つて代つたのださうです。」
「成程、間もなく栗瀬が降りて見ると、亭主は小使室で居睡をして居つたさうぢやから、其申立ては眞實かも知れぬ。してみると、お輪の性質以外に、彼等についてもう不審の點も無かりさうですな。あの晩お輪が何故急いで歸つたか御訊きでしたか。その忙しさうな歩調が巡査の眼にも觸れたさうぢやが。」
「毎時より時間が遲れたので家へ急いだと申立てました。」
「貴君と栗瀬とは少くも二十分は遲れてお輪の後を追ひ掛けたでせう。その貴君方が何でお輪よりも先きへ行き着いたか、其點は如何です。」
「乘合馬車と二輪馬車とでは速力が違ふと申すのです。」
「では、家へ着くと、裏口の勝手の方へ驅けて行つた譯は?」
「借金取に拂ふべき金を勝手に藏つておいたからださうです。」
「何れにも辻褄の合ふた答へはなし居るな。お輪が役所を出際に、若しや猿巣町で何者かに逢はなんだか、或は其邊をブラ/\して居る者を見掛けなんだか、それを御訊きでしたらうか。」
「巡査のほかは誰も見掛けなかつたやうですな。」
「フム、貴君の御訊問に御手落はなさゝうぢや。そのほか何のやうな手段を御取りなすつたらう。」
「屬官の綾田五郎をこの九週間の間密偵して見ました、が、何の効もなかつたのです。」
「そのほか?」
「いや、もう何にも有りません――何の證據も手に入りません。」
「あの鈴が鳴つた原因については何か御考へが有りますか。」
「いや、實際を申すとあれには弱りましたよ。何れにせよ、彼室へ忍び込んで、わざ/″\警報を與へるといふのは大膽極まる所業ですな。」
「さうです、變つたやりかたです。いや、色々お話下すつて有難う若し賊を御手渡しする事が出來たらば、其際はまた我輩の實驗をお話しませう。須賀原君、失禮しやう!」
「今度は何處へ行くね。」
警視廳の門を出ると予が訊ねた。
「現内閣外務大臣にして未來の英國總理大臣たる堀戸春容卿を訪問するのさ。」
大臣は都合好く尚ほ役所を退出せずにゐた。保村君が刺を通ずると直ちに引見された。彼は彼特有の舊式の禮法を以て我々に應接した。そして暖爐の兩側に据ゑた二脚の贅澤な安樂椅子に我々を掛けさせた。主人は我々の間に立つてゐる。華車なスラリとした體格、嚴格にして思慮有りげなる顏付、既に霜を交へた縮毛、打見たところ眞の貴族らしき風采の貴族である。
大臣は微笑みながら、
「保村さん、貴君の御噂さ能く承つて居る。無論貴君の御來訪の目的を私が存ぜぬと白を切るわけではない。實に役所始まつて以來初めて貴君の御注意を惹くやうな事件が起りました。失禮ぢやが貴君は誰のために御働きになつて居られますか。」
「栗瀬律夫君のために骨折つてゐます。」
と保村君が答へた。
「あゝ、不幸な甥のためにですか――貴君はお解りですか――彼が一族一門たるが故に、何の途からも彼を庇ふといふことが私には致し惡い。今回の事件は彼の前途のために甚だ不利益な結果を齎すに違ひない、それが殘念であるのです。」
「併し書類が發見されましたらば?」
「あゝ、無論その曉には問題が違ふて來る。」
「閣下、私は一二點御訊ね致し度いことが有るのですが。」
「知つとる限りは悦んで御答へしませう。」
「條約文の筆寫について閣下が御命令を御與へになりましたのは此御室で御座いますか。」
「左樣。」
「では他人に聽かれる心配はなかつたので御座いますな。」
「仰有るまでもなく。」
「條約文を筆寫させる意志が御有りだと申すことを甞て誰方かに御洩らしでもなさいましたか。」
「決して洩らしません。」
「確に左樣で御座いますか。」
「確です。」
「はア、閣下も御洩らしにならぬ、栗瀬君も秘密を守られた、他に誰方も御存知の方がないとしますれば、栗瀬君の室に賊が入つたのは全く偶然であつたので御座いますな。偶然に好機會に觸れた、それで持ち出した、と斯ういふ事になるので御座いますな。」
大臣はまた微笑んだ。
「其邊は私の領分以外の事に屬しますテ。」
保村君は一寸考へてから、
「もう一つ御意見を御伺ひせねばならぬ大切な件が御座います。其條約文の内容が他に洩れたる曉には非常な重大な結果が生じて參る、それを閣下には多分御心配で御座いましたらう。」
暗い影が大臣の特色ある顏を颯と曇らせた。
「全く、非常な重大な結果が起きますな。」
「その結果が既に現はれましたらうか。」
「まだです。」
「例へばですな、それが佛國或は露國の外務省の手に入つたとしますると、自然閣下にはお解りで御座いませうな。」
「解りませう。」
と大臣は顰め面をした。
「併し約十週間を經たる今日、未だ何の情状にも接せぬのを以て見ますれば、條約文は何等かの理由の下に敵の手に達しなかつた、さう考へても不穩當では御座いますまいな。」
堀戸卿は肩を聳やかした。
「だが、保村さん、賊はまさかに條約文へ枠をつけて懸けておく爲めに盜みはしますまい。」
「一段と高値のつくのを待つてゐるのではありますまいか。」
「もう少し待つて居るうちには恐らく虻蜂取らずになつて了ふでせう。あの條約文は數ヶ月以後には最早秘密ではなくなりますからな。」
「それは最も大切な點です。無論賊が急病に罹つたなぞといふことも有り得べき事ですから――。」
「例へば腦膜炎に罹るといふやうな塲合ですか。」
と大臣は瞥乎と保村君の顏へ流眄をくれて言つた。
「いや、さうは申上げません。」と保村君は落着いたもので「所で、閣下の御多忙の時間を大層御邪魔致しました。それでは御暇致します。」
「賊は何者であらうとも、貴君の御搜索の成功を祈ります。」
別れて出て來ると保村君はかう言つた。
「大臣は立派な男だ。併し先生、現在の位置に噛りつき主義を取つてゐるね。餘り金持でないのに、招待なぞが澤山有る。無論君は大臣の靴の底が二度も修繕されたのに氣が付いたらうね。さてと、須賀原君、今日はあの新聞廣告に返事のない限りはもう爲るべき事もないから、此上君の御邪魔をするには當らなくなつた。が、明日また今日と同じ時刻の列車で、一所に王琴町へ行つて貰はれると非常に好都合ぢやがねえ。」
「お安いことだ。ぢや明日また會はう。」