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 不思議の鈴
 三津木春影
 

    五 倫敦行ロンドンゆきの汽車の中……周密な推理と研究

 長話ながばなし疲勞つかれて、病人は布團の上に頽然がつくりと沈み込んだ。それを見ると看護の千嘉子は、何やら興奮劑を一杯勸めるのであつた。保村君は沈默おしだまつたまゝで頭をうしろへ反り返らせ、眼を閉じてゐる其態度やうすは知らぬ者には無頓着にも見えやうが、實はこれは同君が一意專念いちいせんねんになつた時のくせであることは、[#「癖であることは」は底本では「僻であることは、」]昵懇じつこんの予には能く解つてゐる。
 やがて彼は口を開いた。
「いや、お話は至極明瞭で其上格別お訊ね致す事もないが、只一つ最も大切なことが殘つてる。貴君あなたはさういふ特別な任務をたくせられたといふ事を誰かにお打明うちあけでもなすつたか。」
「誰にも話しません。」
「例へば、こゝに御居での千嘉子さんにも。」
「話しません。叔父に命令いひつけられてから、寫しに取り掛るまでの間にうちへ歸つて參つたのではありませんもの。」
「貴君の御家族の誰かゞ、偶然に其時貴君に面會にかれた樣な事もありませんか。」
「有りません。」
「御家族の方で外務省の内部の樣子を御存知の方がありますか。」
「えゝ、/\、そりや一通りはみんな案内したことが有ります。」
「小使の身上みのうえについては何か御存知かな。」
「彼が古い兵隊あがりだといふほかは何も存じません。」
「聯隊は何處どこでしたらう。」
「それは、聞きましたよ――古留戸こるどの守衛隊であつたとか言ひましたつけ。」
「有難う。織部刑事からは尚ほ必ず詳細の事が聞かれるでせう。一體其筋の者は事實を集めるには妙を得てゐますよ、もつともそれを有利に使ひこなすとは限りませんがね。薔薇といふものは可愛いものですね!」
と保村君は、寢椅子のそばを通り越して、開け放つた窓際に歩み寄り鉢植の薔薇の垂頂うなだれた莖を掴んで、深紅と青との美しい混合色まじりを見下ろした。彼の性格の状態としては、予にとつても誠に珍しい事だ。彼が天然物に對してこんな鋭い興味を感じてゐるところなぞはツイぞ見掛けたことがない。
「凡そ演繹法といふものは、宗教に於ける時ほど必要なことはないね。それは、世の理論家によつて正確な一科學として建設されることが出來る。我々は花を見る時ほど、神樣の仁慈を深く感ずることはない。其他そのたの總ての事物、我々の力だとか、慾望だとか、食物だとかいふものは、我々の生存にとつては眞先まつさきに必要なものには違ひないさ。けれどもこの薔薇の花は例外です。この香りだの色だのは人生の裝飾であるて、その必要條件ではない。この例外を與へるものはひとり仁慈である。だから我々は花から期待する事が多いといふことを私は繰り返して言はうと思ふね。」
 此論證ろんしよう中、栗瀬律夫と千嘉子とは驚駭おどろきと失望との表情をして保村君の顏を眺めてゐた。保村君は指の間に薔薇を狹んだまゝで恍乎うつとりと幻想に陷つてしまつた。五六分間もさうしてゐると、千嘉子はとうとうまらなくなつたのか、
「保村先生、先生にはこの不思議を御解おときになりまする御見込みが御つきで御座いませうか。」
と幾分不快を交へた聲で問ひかけた。
「あゝ、不思議ですか!」と急に現實の世界へ引き下ろされて斯う答へた。「左樣さ、此事件が非常に隱微な錯綜したものであるといふことは拒むわけにゆきませんな。併しお約束は出來ます、わしは事件を研究して見ませう、そして特別にこれはと思ふ事が有つたらば御知らせ致しませう。」
「何か手掛りの御心當りが御有りで御座いますか。」
「只今のお話で七つの手掛りは得ました。が、一々當つて見ねば其價値かちについては早計に斷言申上げられません。」
「誰か嫌疑者がお有りで御座いませうか。」
わしは私自身疑ふのですが――。」
「何をで御座いますか。」
「餘り早く見込が立ち過ぎましたからな。」
「では倫敦ロンドンへ行らしつて、その御見込みを御試おためし遊ばせな。」
「千嘉子さん、貴女あなたの御忠告は非常に適切ぢや。」と保村君は今迄背をり掛けてゐた窓のとびらから身を起して「須賀原君、やはりさうするほかはない。栗瀬さん、貴君は的の外れた希望にふけることは不可いけませんぞ。この事件は隨分こんがらかつたものですからね。」
「もう一度御目に掛るまでは僕は相變らず病人です。」
と律夫が叫んだ。
「なに、明日みやうにちまた同じ汽車で伺ひませう、あるひは餘り吉報を御土産にすることは出來ぬか知れませんが。」
「是非々々、らしつて下さい。事件に對して何事かゞ運ばれてゐるといふ事を知るだけでも氣が霽々せい/\とします。あ、それから僕は堀戸卿から手紙を受取りました。」
「ほオ! どのやうな事を申されたか。」
「叔父はひやゝかです、併し苛酷ではありません、それはつまり僕が大病人になつたせいだとは思ひます。手紙には繰返して、此事件が重大である事がべてあります。それから斯ういふことが斷つてあります――無論僕の免職の意味でせうが――僕の健康が恢復して、この不幸を償ふ機會を持つまでは、僕の未來に向つては一歩も取れないといふことなんです。」
「成程、それは理性的の思慮ある御言葉ぢや。では須賀原君、御暇おいとましやう。まだ/″\まちへ行つて澤山仕事をせねばならぬ。」
 與瀬春藏君が停車塲まで馬車で送つて來てくれて、やがて我々は倫敦行ロンドンゆきの汽車中きしやなかにあつた。保村君は深き瞑想に打沈み、倉畔くらはん乘換驛を過ぎてから漸く口を開いた。
の線にせよ、此樣このやうな軌道の高い列車に乘つて、此樣な家を瞰下みおろしながら倫敦へ入つてくのは實に愉快なものぢやねえ。」
 何を戯談じようだんを言つてるんだ。此邊このへんの景色と來たら隨分穢苦むさくるしいぢやないか。併し彼は直ぐに説明して曰くだ。
「見給へ、葺石ふきいしの上に聳えてゐるあれらの一むれ隔絶かけはなれた大きな建物を……まるで、鉛色の海の中にある煉瓦の島みたやうな建物を。」
「あれは公立小學校だよ。」
「君、あれは燈明臺とうみやうだいだよ! 未來の狼烟のろしだよ! 希望に滿ちた小さな種がさやにも一パイに滿ちてゐる。あの中からいまに賢い奴等が飛出すのだ。未來の良國民が飛出すのだ。ところで、あの栗瀬君は酒を飮むかね。」
いや、僕は下戸だと思つてゐるがね。」
「我輩もさうは思ふ。併し凡有あらゆる微細な事を勘定の中に入れる必要があるね。可哀相に、先生、自分から拔き差しならぬ深みへはまつてしまつたのだ。そして我々がそれを首尾好く引張り上げられるかうかゞ問題ぢや。君は千嘉子について何う思ふ。」
「なか/\確乎しつかりした令孃だね。」
「さうさ、併し性質は善良だよ、さうでなかつたら我輩の見損みそくなひだけれどもね。あの兄妹は諾撒波のるさんぱ附近の或る製鐵商の子だ。律夫君は去年の冬旅行中にあの令孃と婚約した結果、千嘉子は彼の家族に紹介されるために、兄にたすけられてあの家へやつて來たのだね。ところが今度の災難が突發したので、其まゝ留まつて戀人を看護することになつた。兄の春藏もツイ居心地がいゝものだから同じく居座いすはつてしまつたのだ。我輩は特別にそれだけの種を探つたよ。今日は兎に角研究の日として働かなけりやならぬ。」
「僕は――。」
「あゝ、君の方にこれより面白い事件があるならば――。」
と保村君はや不平さうな聲で言つた。
「いや、僕の言はうと思つたのはね、今は一年中一番閑暇ひまな時だから、一日二日は思ふさま僕もこの事件に奔走出來るといふことなのさ。」
「あゝ、それは好都合ぢや。」と御機嫌が直つた。「では一所に研究してみやう。づ手始めに織部探偵に面會するのぢやね。多分思ひ通りの詳細なことが聞かれるだらうから、そしたらの方面から事件に接近して行つたらいかも解るだらう。」
「君は手掛りが見付かつたと言つたね。」
「それは幾つもある。が、其價値は今後の取調べの結果に待たねばならぬ。犯罪中でその痕を辿るのに一番困難なのは、見込の立たない奴であるが、今度の事件は見込が立たぬ事はない。今度の事件で利益を受くる者は誰であらう……と考へて見ると、佛國ふつこく大使もある露國ろこく大使もある、其いづれかへ密書を賣り渡す者も利益を受くる。それからまた堀戸ほりど春容しゆんよう卿である。」
「堀戸卿!」
「さうさ、斯ういふ事は考へられるだらう――それは政治家が此樣な位置に身をおくことが出來る。此樣な位置といふのは、今度の如き密書が偶然に破毀はきされても格別痛痒つうやうを感ぜぬやうな位置にあることぢや。」
「併し、堀戸卿のやうな名譽をになふてゐる政治家はまさか。」
「まア、さういふ事もあるといふだけぢや。けれども我々は全然それを度外視することは出來ぬよ。今日こんにちは外務大臣にも面會して、何か新事實があるか何うか當つてみやう。兎に角我輩はもう探索を始めたよ。」
最早もう?」
「うム、王琴わうきん停車塲ステーシヨンから都下とかの各夕刊新聞へ電報を打つておいたから、れにもかういふ廣告が現はれることだらう。」
と手帳の引き裂いた紙片を予に渡す。それには鉛筆で次のやうな文句が走り書きしてある――

       懸 賞 廣 告
去る五月二十三日、十時十分前頃ぜんごろ、外務省の猿巣町さるすまちに向へるの前に、あるひはその附近に乘客じようかくを降ろせる馬車の番號を求む。御存知の人は久良瀬町くらせまち二百二十一番舘に御報告を乞ふ。二十圓の謝禮を呈す。

「すると君は、賊が馬車で來たと信ずるのだね。」
「馬車で來ないとしたところで元々さ。併しぢやね、へやにも廊下にも隱れ塲所がないといふ栗瀬君の[#「栗瀬君の」は底本では「粟瀬君の」]證言を事實とすれば、賊は外部から入つたものに相違ない。然るにぢや、あの雨降りのに外部から來たにも係らず、盜難の直ぐ後で調べた床の油團ゆたんに何の泥跡どろあともついてゐないとしたならば、賊が馬車で來たとよりほか思はれぬではないか。さうだ、たしかに馬車といふ推察は當つてると思ふ。」
「さう言はれゝばさうらしいね。」
「我輩の言ふた手掛の一つはそれさ。其手掛からまたほかの手掛が引き出せるだらう。それから次には無論べるの問題がある――これが事件中での一番異彩のある疑問だが、一體何故なぜべるが鳴るやうなことになつたのだらう。賊が大膽不敵の餘りに鳴らしたのであらうか。それとも賊以外に何者かゞゐて、犯罪をさまたげるために鳴らしたのであらうか。でなくば偶然にか。いや、ひよツとすると――。」
と言ひ掛けて、再び熱心な瞑想のきやうに沈んでしまつた。が、彼の一擧一動の意味を知悉ちしつしてゐる予にはく解る――何等かの新しい光明が彼の心に射し込んだに違ひない。


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