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 不思議の鈴
 三津木春影
 

    三 あやしき階上のりん……駭然がいぜん驅上かけあがればあゝ

「僕は叔父から命令された通りにして、屬官連ぞくゝわんれん退けるのを待つてゐました。そのうちに僕のへやの同僚も大抵去りましたが、只一人ただひとり綾田あやだといふ男が、少し仕殘しのこした仕事があると申して殘つてゐましたから、僕は彼を殘して室外に出て、夕飯を喰ひにきました。歸つて見ると綾田はもうゐない。そこで僕は急いで叔父の仕事に取り掛りました。と言ふのは、この千嘉子の兄――只今御覽になつたあの春藏君が、その日はやはり町へ出掛けて參つて、午後十一時の汽車で王琴町へ歸るのを知つてゐましたから、なるべくは僕もそれで一しよに歸り度いと思つたからでした。
 へやに戻つて條約文を讀んで見ると、成程頗る重大なものであつて叔父が極力秘密々々ひみつ/\と申したのも決して誇張の言葉でないことが解りました。詳細のことは兎に角、一げんにして申せば、それは三角同盟に對する大英國の位置を定限ていげんしたものなのです。そして地中海において佛國艦隊が、伊太利イタリー艦隊よりも絶對に優越權を占めた[#「優越權を占めた」は底本では「優越機を占めた」]塲合にしよする我國わがくにの政策を豫定したものでありました。其中そのなかに取扱はれてる問題は皆、純粹の海軍に關する問題のみでしてね、最後に兩國君主の御署名がありました。僕は一通りズツと走り讀みに目を通してから、寫し取りに掛りました。
 所がその文書と來ましたらば隨分長いもので、佛蘭西フランス語で書かれた二十六個條かでうから出來てゐますので、一生懸命にペンを走らせましたが、九時になつても漸く九個條を寫したばかり、豫定の汽車の時間までには到底間に合ひさうもありません。そのうちに、食事ののちと言ひ、終日の仕事の疲勞つかれと言ひ、次第にねむくなつて茫然ぼんやりして參りました。こんな時に珈琲コーヒーの一杯も飮んだらば頭腦あたま明瞭はつきりするかも知れぬ。一體役所では、階段はしごだんの下の小さなへや小使こづかひが終夜殘つてゐましてね、時間外の仕事をする者には、アルコホルラムプで珈琲コーヒーをたてゝ持つて來る習慣になつてゐましたから、そこでベルを鳴らして小使を呼びました。
 意外にも、ベルに應じて登つて參つたのは毎時いつもの小使ではなく、前垂まへだれを掛けた一人の、下品な顏付をした、年配の大女でした。聞けば小使の女房で、役所で雜役ざつやくをしてゐる女なんださうです。で、それへ珈琲コーヒーをたてゝ來るやうに命令いひつけました。
 また二個條ばかり寫しましたが、ます/\睡くてたまらないので椅子から立上つて、あしを踏み伸ばすために室内をあちこちと歩き始めました。けれども珈琲コーヒーがまだ來ない。チヨツ、何を愚圖々々ぐづ/″\してるんだらうなアと、僕はを明けて、小使室こづかひしつくために廊下を進んできました。僕の働いてゐた室からは一すぢの廊下がズーと通じて、朦朧ぼんやり燈火あかりに照らされてゐます。僕の室からの出口はこれ一つだけなのです。それを通り越すと彎曲まがつた階段はしごだんがあつて[#「階段があつて」は底本では「階級があつて」]そのつくしたところが小使室こづかひべやに當つてゐました。このまた彎曲まがつた階段はしごだんの中腹に小さな一つの中段があつて、そこへ直角すぐかどほかのもう一つの廊下が拔けてゐます。この第二の廊下をつたふてゆけば、同じく小さな階段はしごだんがあつて、そのくち雇人共やとひにんどもの出入のになつてゐます。もつとも猿巣街さるすまちの方から通ふ役人は、近路ちかみちだと申して大抵そのの方を通るやうでした。一寸ちよつと略圖りやくづを書きませうか――うです。」
と律夫は千嘉子に紙片かみと鉛筆とを持つて來させて、挿繪さしゑのやうな略圖を描いて見せた。
「いや、これでお話が一層明瞭めいれうになります。」

見取り図

と保村君が言つた。
「えゝ、此構造の點を呑み込んでゐて下さる事が非常に必要であります。で、僕は階段はしごだんを降りて小使室こづかひべやに入つて見ますと、珈琲コーヒーが來ないのも道理、小使先生グツスリと居睡ゐねむり最中さいちうそばにはアルコホル・ラムプにかけた釜がグラ/\と煮立つて湯がきこぼれてゐるといふ有樣です。先生、僕が入つて行つても尚ほ知らずにねむりこけてゐる。そこで僕は手を伸ばして搖り起さうとしますと、丁度その時でした、頭の上でベルがリン/\と鳴り出した、其音そのおとで小使はびつくりして初めて跳ね起きました。
「おや、栗瀬さんでございますか!」
とキヨロ/\と僕を眺めてゐますゆゑ。
「さうだよ、珈琲コーヒーを頼んだけれども持つて來てくれないから取りに來たんだよ。」
「いや申譯まをしわけもございません、ツイ釜をかけたなり寢こけてしまひまして……。」
とまだ僕の顏を眺めてゐます。ベルはまだリン/\と鳴り續いてゐる其音を聞けば聞くほど小使の驚きは増して來ました。
「ハテ、不思議でございますね。貴君あなたがこゝにゐらツしやるのに………誰がりんを鳴らしてゐるのでございませう。」
「え、りんかえ! あのりんはどこのだえ。」
「貴君が今迄お仕事なすつてゐらしつたおへやりんでございますよ。」
と言はれた時の僕の驚き、ハツとして思はず背中へ水をさゝれたやうな氣がしましたよ。あの大事な條約文がテーブルの上に乘つたままである。すると何者かそのへやへ入つて來たのだ……と思ふと僕は狂人きちがひのやうに階段はしごだんを飛び上りました。併し保村さん、廊下には誰もゐないんです。室内にも人影がないんです。何處どこ彼處かしこもチヤンと元のまゝなんですが、たゞ書擡デスクの上を見ると、例の大事だいじの/\書類が乘つてゐない。寫しの方はありますが、正本しやうほんの方は影も形もありません。」
 保村君は椅子から立上つて兩手を揉みだした。これは問題に油の乘つた時の證據しようこである。
「それからうなすつた。」
と呟く。
「僕には直ぐにかういふことが解りました、それは賊が今お話した第二の廊下の方から來たに違ひないといふことです。若し僕の通つた本廊下の方から忍び込んだものならば、僕とき逢はぬ筈はありませんからな。」
「併し賊が以前から室内しつないに潜んでゐたやうなことはありませんか。あるひはお話では廊下の燈火あかりが甚だ暗かつたとのことであるが、その暗きを利用して廊下に隱れてゐたといふやうなこともありませんか。」
「それは絶對に不可能です。へやでも廊下でも鼠一ぴき隱れることは出來ません。兩方とも何の掩護ゑんごもありませんもの。」
「成程、では次を伺ひませう。」
「僕が眞蒼まつさをになつて驅出かけだしたものですから、小使も何か椿事が起きたと思つて、二階へ續いて驅け上つて來ました。けれども二階はその通りの譯なんですから、二人はまたもや階段はしごだんを飛びくだつて、猿巣町へ向つた側廊下わきらうかの方へ進みました。突當つきあたりのは閉まつてゐましたが、錠はおろしてない。我々はこれを蹴飛ばして往來へ走り出ました。僕は今でもはつきり覺えてゐますが、其時丁度近所の寺の鐘がカン/\/\と三つ鳴り渡りました。つまり九時十五分前の鐘ですね。」
「それはく大切な點ぢや。」
と保村君は襯衣シヤツのカツフの上へ控えを書いた。
「外へ出てみると夜は暗く、あたゝか微雨こさめが降つてゐました。猿巣町には一にんの人影もありません。たゞ例の通り大きな馬車が町端まちはづれの方へ消えるばかりでした。我々は帽子も被らず舖石しきいしの上を驅けてきますと、遙かの角に一にんの巡査を見付けました。
 僕は息を喘々ぜい/″\言はせながら、
盜賊どろばうが入りました! 外務省から頗る重要な書類を盜み出した奴があるんですがね、誰か此道を通つた者はありませんか。」
 すると巡査の曰くです、
わしは十五分ばかり前からこゝに立つてゐるんですが、其間そのあひだにたツた一人通つたゞけですよ――それは婦人でしてね、年寄つた大きな女で、黒い肩掛シヨールを掛けてゐた……。」
「あゝ、そりやわたしかゝあです。」と小使がさけ[#「口+斗」、U+544C、35-6]びました。「他には何奴どいつも御見掛けになりませんでしたかね。」
「見掛けんかつたよ。」
「ぢや、盜賊どろてきめ、ほかの道を逃げやがつたに違ひない。」
と言つて小使は僕の袖を引張るのです。
 併し僕はどうも不滿足でした。それに小使の奴が僕を無暗むやみわきの道へ引張るのも却つて疑ひを増す種となりました。
「其女は何方どつちきましたらう。」
と巡査に訊きますと、
「知りません、たゞそんな女が通るなと思つたばかりで、無論特別に注意する氣も起らないですからな。兎に角急いではゐましたよ。」
れほど以前ですか。」
「なに、たつた今のことです。」
「五分ばかりですか。」
「なに、五分も經つてやしません。」
と言ふ問答を小使はもどかしげに、
「栗瀬さん、そんなつまらぬ事でひまを取つてゐらしつちや駄目ですよ、一分間でも大切な時ぢやございませんか。わたしとこの婆さんが何でそんなことに關係があるものですか、そりやたしかですよ。ですから早く他の方を搜しませう……えゝ、貴君が行らツしやらなきや、私が行つて見ませう。」
と走り出してしまひました。
 それを直樣すぐさま僕はひかけて[#「追ひかけて」は底本では「退ひかけて」]捕まへました。
「お前の住居うちはどこか。」
愛比町あいびまち十六番地です。けれども栗瀬さん、そんな間違つた嫌疑はおしなさいまし。それよりや、早く此方こつちへ行つて何か手掛をつかまへませう。」
 全く其通りですから、僕は巡査と一しよに別の往來へ驅けてきましたが、こゝはまたふ人や馬車で一パイ、いづれも雨を厭つて家路に急ぐ者ばかりですから、れがうだか、さつぱり解りません。」


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