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 不思議の鈴
 三津木春影
 

    二 大臣よりの重大使命……美人をそばに物語

 幸ひにして停車塲ステイシヨン發の朝の汽車に間に合ふ事の出來た我々は、一時間と經たぬに、王琴町わうきんまちもみの樹と、薔薇色の花を開くの樹との間を歩いてゐた。降矢ふりやの栗瀬家は、停車塲ステイシヨンから五分とはかゝらぬ近さの廣い地面の中にポツリと隔絶かけはなれて建てられた大きな邸宅やしきであつた。
 名刺を出して案内を乞ふと、直樣すぐさま一つの美々しい裝飾かざりのある客間へと通され、待つほどなく一人の肥え太つた男が出て來て、はなはだ慇懃に我々を厚遇するのであつた。年配は三十と四十との間、寧ろ四十近い方で、ほゝ[#「夾+頁」、第3水準1-93-90]澤々つや/\した血色けつしよくと言ひ、眼の樂しさうな輝きと言ひ中年の老けた年齡としにも似合はず、まだ活溌な腕白小僧の面影を見せてゐる紳士である。
「ほんとにうこそいらしつて下すつた。」と彼はしんからよろこばしさうに我々の手を握つて「栗瀬はもう今朝から貴君方あなたがた御出おいでばかりを待ちこがれましてな、だ御見えにならぬか/\と絶間しつきりなしに催促致しつたのですよ。誠に氣の毒な至りで、まア溺れる者は藁でも掴むと申した状態ありさまですテ。栗瀬の兩親がわたしに代理に御接待申上げてくれいと申すことで……それと申すのが、此問題についてお話しするさへも辛いからとせつながりますのでな。」
「いや、私共はまだ何の詳しい事も存ぜん。」と保村君が言つた。「貴君あなたは御見受け申すところ、御家族の方でもおありなさらんやうですな。」
と言はれて向ふは驚いた樣子、そして瞥乎ちらり流眄ながしめをくれて笑ひ出した[#「笑ひ出した」は底本では「笑び出した」]
「ハヽヽ、私の小金盒こきんばこ(懷中時計のくさりに付ける裝飾物)の「よ、は」といふ略字を御覽になつたのですな。いや、それならば不思議もありませんが、どうしてお解りかと一寸ちよつと驚きましたよ。私は與瀬よせ春藏はるざうと申しまして、實は栗瀬が私のいもと千嘉子ちかこと結婚することになつて居りますので、まア親戚關係にならうといふものでございます。妹は栗瀬のへやに居りますが、それはもう二ヶ月の間といふものは帶も解かずに看護致しましたよ。兎に角、病人がどのやうにか待ち遠しくて居りませうから、直ぐに彼方あちらへ御願ひ致しませうか。」
 更に我々の導かれたへやは、客間と同じゆかにあつて、一部は居間に一部は寢間ねまにあてられた體裁ていさい隅々すみ/″\には[#「隅々には」は底本では「偶々には」]種々さま/″\の花なぞが綺麗に飾られてあつた。蒼白あをざめて憔悴せうすゐした一にんの青年が、明け放つた窓際の寢椅子ソーフアの上によこたはつてゐる。窓からは庭園のゆたか草木さうもくの匂ひや、かんばしい夏の空氣が入つて來る。青年のそばには一人ひとりの婦人が腰掛けてゐたが、我々の姿を見ると立上つた。
「律夫さま、わたしはあちらへ參つて居りませうね。」
 青年は女の手を取つて引留ひきとめておいて、さてねんごろに、
「やア、須賀原君、しばらく、御變りもなかつたかね。そのひげ鹽梅あんばいでは途中で遭つても御互おたがひに解るまいよ。このかたが君の親友の保村さん?」
 予は簡單てみじかに彼を紹介したのち、共に椅子へ腰を下ろした。與瀬といふ男は室外へ出て行つたが、いもうとの方は病人に手を取られたまゝでまつた。非常に人目を惹く容貌で、少し肥え過ぎてせいの低いところが釣合つりあひが惡いとは言ふものゝ、顏色は阿利布オリーブ色の美しく、眼は伊太利イタリー式に大きく黒く、毛髮かみのけ房々ふさ/\と黒く豐である。その豐麗な顏色との對比コントラストで、病人の白い顏が一層痛々しく痩せ衰へて見えたのである。
 病人は寢椅子ソーフアの上に身を起して、
「御多忙中を餘り長く御手間を願ふのもいかゞですから、前口上を略して直ぐ本題へ飛込みませう。保村さん、僕は今迄は幸福な身分でした。成功のみちに向いてゐる男でした。それが、いよ/\結婚の間際といふところになつて突然に、一つの恐ろしい不幸が持上つて、生涯のすべての希望を滅茶々々めちや/\に壞してしまひました。
 多分もう須賀原君から御聞き及びでせうが、僕は外務省に出勤してゐまして、叔父の堀戸ほりど春容しゆんよう卿の精力のお蔭で昇進も速く、一足飛びに今の位置にまで登りました。殊に叔父が今度の内閣で外務大臣となりまして以來は、僕に種々の重大な使命を與へまして、それをまた僕がいつもまア手際よく片附けたものですから、しまひには僕の伎倆と氣轉きてんとに絶大の信用をおくやうになつたのです。
「そこで、およそ十週間ばかり以前でした――さうですね、詳しく申上げると、五月二十三日の事なんです――僕は叔父のへやに呼ばれました。叔父は僕の此頃このごろの手柄をいろ/\とめてくれたのちに、實はもう一つ新たに重大な任務で頼み度いことがあると申しました。
 叔父は書擡つくゑ抽出ひきだしから、灰色の一くわんの公文書を取出してさて申しますには、
「これは我が英國えいこく伊太利イタリーとの間の秘密條約文の原文である。遺憾なことにはこれに關する兎角の評判がもう新聞に載つたやうであるが、極めて大切なものであるで、その上の内容を新聞社などに漏らしたくないのぢや。佛蘭西フランス露西亞ロシアとの大使は、この條約文を嗅ぎ知るためには、どのやうな莫大な金をも惜しまぬぢやらう。で、一分間もこの抽出を去らせるものではないのであるが、只こゝに止むを得ぬといふのは、この條約の全文を寫し取つておく必要があるのぢや。君は事務室に書擡デスクを持つてるだらうね。」
「ハイ、持つて居ります。」
「では此書類を持つて行つてでうをおろしておいたがよからう。そして君だけが少し後へ殘つて、一同の退出し切つたのを見計ふてゆつくりと寫して貰ひ度い。すればぬすみ見られるといふ心配もない。で、いよ/\寫し終へたならば、原文と寫しの方とを再び書擡デスクへ入れて嚴重に錠をしてな、明日あしたの朝君自身の手からわしに渡して貰ひ度いのぢや。」
 さういふ譯で、僕は書類を受取つて――。」
 保村君が口を出した。
一寸ちよつとお待ち下さい。外務大臣とのそのお話の間は、貴君あなたお一人きりであつたらうか。」
「一人きりでした。」
「大きなへやですか。」
「縱横とも五けんの室です。」
「その室の中央まんなかで御話しでしたか。」
「左樣、まづ中央のへんでした。」
「お聲は低い方で?」
「叔父の聲はいつも非常に低いのです。僕の方では殆ど口をきませんでした。」
「有り難う。何卒どうぞお次ぎを。」
と保村君は眼を閉ぢた。


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