河底の寶玉
三津木春影
二、劇場前の怪馬車……濃霧を衝きて何處に行く……
呉田博士が歸宅したのは五時半、甚だ上機嫌である。側の茶を啜りながら、
「此事件は大した怪事件でも何でもないらしい。一言にして説明し得べき性質のものぢや。」
「ハヽア、ではもう眞相がお解りになつたのですか。」
「いや、まださう言はれては困るが、併し一個の手懸になるべき事實は發見した。俺はあれから英字新聞社へ行つて、古い綴込を見せて貰ふたところが、丸子孃の話にあつたボンベイ第三十四歩兵聯隊を退いて上海に住ふて居つた山輪少佐は、今から六年以前の四月二十八日に意外にも東京で死んで居るわい。」
「それが何の手懸になるで厶いましよう。」
「驚いたな。ではかういふ順序に考へて見給へ。先づ須谷大尉が行衞不明となつた、大尉が印度から上海へ來て訪問するやうな友人といふのは一人山輪少佐あるのみぢや然るに同少佐は須谷大尉が上海へ行つたのさへも知らぬと言ふ、其山輪少佐も四年後に東京で死んだ。其日附は今も話した通り四月二十八日さ、處がそれから一週間も經たぬうちに、須谷大尉の令孃は何者よりとも知れず高價なる贈物を受け、爾後六年間毎年續いて、終に今回の呼出の手紙となつたではないか。其手紙には丸子孃を稱して「或る者より害を蒙らしめられたる不幸なる婦人」と云ふ。彼女にとつて父の喪失以外に尚ほ何の不幸があるだらう。それに贈物が何故山輪少佐の死後直ちに始まつたのだらう。かう考へて來ると、少佐の子か何ぞが或秘密でも知つて居つて、その辨償を丸子孃に致さんと欲したものゝやうにも見ゆるではないか。それとも君には他に有力な解釋でもあるのか。」
「辨償とすれば實に奇體な辨償ですなあ! それに其仕方が怪しいやうに思はれますが! 丸子孃に手紙を送るにしても、なぜ六年前に送らなかつたでしやう。手紙には今夜の會見によりて彼女が幸福を得るとありましたが、果して何の樣な幸福を得るでしようか。まさか父の大尉が生存して居るとも考へられませんが。」
「矢張り難しい、難しい。」と博士は沈欝な口調で「併し今夜の探險で萬事解決されるだらう。あゝ、馬車が來た、丸子孃が來たのだらう。君、支度が好ければ階下へ降りやうぢやないか。」
自分は帽子を冠り、頗る重き杖を取上げたが、見れば博士は抽出から短銃を出して懷中に入れた樣子、この分では今夜の探險は危險が伴ふて居るやうに自分は思つた。
博士と自分は、丸子の馬車に乘つた。丸子は黒い外套を着て居た。其多感らしい顏は落着いては居たが蒼白かつた。斯る時にしも尚ほ多少の不安も感ぜざるものとせば、彼女は男優りと謂はねばならぬ。而も彼女は完全に自己を制御して居た。そして博士の質問二三に對して躊躇なく答へをした。
「父は山輪少佐とは同じ安陀漫島の軍隊を指揮して居りました所から、それは/\少佐とは親密な間柄の樣でしたよ。父の手紙に少佐の噂のないのは厶いませんでした。それは兎に角、こゝに父の行李の中から發見致しました變な一枚の紙切が厶います。何か書いてありますけれど誰にも其意味が解りませぬ。何かの御參考になるかも知れぬと存じまして、只今見付け出して參りました。」
と孃の差出す紙片を受取つた博士は、馬車の中ながら膝の上に披げて皺を伸し、例の二重の擴大鏡で仔細に之を檢査する。
「純粹の印度製の紙ですな。甞て板か何かへ釘で留められた跡がある。こゝに描いてある圖表は、何か澤山の室、廊下なぞを持つた或大建築物の一部の設計圖らしい。紙の片隅に赤インキで書いた一個の小さな十字形が有りますな。はア、其上に鉛筆で大分消えてはゐるが「左から三・三七」と書いてある。それから左の片隅には奇體な形象文字がある。四つの十字形が一列に列んで其腕が觸れ合つて居るやうな形ぢや。いや其傍にも何かあるわい。莫迦に荒つぽい文字ぢやな、なに「簗瀬茂十[#「簗瀬茂十」は底本では「梁瀬茂十」]、眞保目宇婆陀、阿多羅寒陀、波須戸阿武迦――以上四人の署名によりて」とある。ふフウ、これが今度の事件と何の樣な關係があるやら俺にはまだ解らぬ! 併し何樣大切な書類には違ひありませぬぞ。これは多分手帳の中に丁寧に藏はれてあつたものですな。さもなくて此樣に兩側ともきれいな筈がない。」
「仰有る通り父の手帳の中から見付け出しました。」
「兎に角非常な必要品にならうも知れぬ故大切に保存なすつた方が宜しい、いや、此事件は俺が最初に考へたよりは遙に深く、遙に精巧なものかも知れん。俺は考へ直す必要がありますわい。」
と言つた後は、博士は馬車の背に倚り掛つて沈思默考に耽り出した。自分は獨り丸子孃を相手に、低聲で彼此と事件の噂をしつゝ進んだ。[#「噂をしつゝ進んだ。」は底本では「噂をしつゝ進んだ。」」]
十一月の夕暮である。未だ七時ならざるに日は暗澹として暮れ、濃き細雨の如き切りが大都を覆ひ盡した。泥濘色をした雲はぬかるみの巷の上に陰慘として垂れ下つて居る。
銀座通りの兩側、家々の瓦斯や電燈は朦朧として光を散らす斑點の如く、粘泥の舖石の上に弱々しき圓形の微光を投ぐるのみ。商店の陳列窓の黄色い閃光は、蒸氣の如き空氣を劈いて、人通り繁き街衢の上に變轉恒なき陰暗たる光輝を撒いた。此等の狹き光の線を横切つて疾飛する數多の顏――悲喜哀樂種々の限りなき顏の行列を見つゝ行く予の心には、言ひ難き畏怖凄慘の情が起つた、顏は闇よりも光に飛び、光より闇に吸込まれる。其普通の印象に恐怖を感じたのではないが、憂欝にして重苦しき黄昏と目下身を措く不可思議なる仕事とが結び付いて我が心を壓迫し神經的ならしむるのであつた。丸子孃はと見れば、これまた同じ感情に窘んでゐる態度が歴々と見える。此間にあつて博士一人のみ、些々たる刺戟から超越して居る。博士は膝の上に手帳を開き絶えず懷中電燈の光の下に何をか書き留めつゝある。
帝國座に着く。觀客は既に兩側の入り口に充滿して居る。前面大玄關には馬車や、自動車やの乘物が蝟集して、盛裝の紳士淑女を降ろしては行く。偖て我々が今しも指定の會合點たる三本目の柱に寄るが否や、早くも一人の馭者の服裝したる小柄の色黒く敏捷なる男が挨拶した。[#「挨拶した。」は底本では「挨拶した。」」]
「えゝ、貴君樣方は若しや須谷丸子さんの御連中では厶いますまいか。」
「私が丸子で厶います。この御二方は私の御懇意な方で厶います。」
と令孃が進み出る。
男は驚くほど刺し透す如き、また疑問的の眼を我々の上に向けたが、稍や頑固なる態度にて、
「須谷さん、御無禮は御宥し下さいまし、貴女樣の御連の方はまさか警察官では厶りますまいな。」
「いゝえ、盟つて左樣ではありませぬ。」
男は一聲鋭い口笛を吹き鳴す。と、一人の別當が一臺の四輪馬車に近付き扉を開く。我々に挨拶した男は馭者臺に腰掛け、我々三人は夫に乘り替へる。腰をおろす間もなく、馭者は馬を鞭つて驅け出す。斯て我々は全速力を以て濃霧の巷を疾驅する、
思へば奇異なる位置にも身を置くものかな。我々は今未知の使命を抱いて、未知の地に驅けりつゝあるのである。今宵の招待が僞瞞であらんとは思はれざれども、全然否らずとも言ひ難い。或は却て良好なる結果を持來すべき旅行であるかも知る可からず、そもまた言ひ難い。丸子の態度は相變らず沈着である、相變らず決然として居る。自分は其心を慰めん爲めに、友人の南洋に於ける冐險譚を試みたが、自分の方が却て興奮してゐた爲めに、譚が屡々混線するのであつた。
初めにこそ自分は馬車の行手に多少の見込みもあつたが、稀に見る濃霧の爲めに何處を駛りつゝあるや解らなくなつた。只隨分長途であるといふ觀念があるのみ。併しながら博士に至つては、馬車が辻廣場を過り、曲りくねれる小路を出入する度に其名を呟いて行く。はゝア、妙な方へ來たな、こりや本所の方へやつて行くな……ソーラ果してぢや……もう橋の上へ來た……河が微に見えるだらう……。」
成程、隅田河の緩い流れが瞥乎と目に入る。廣い沈默した河面に船の火が搖めき居ると見たも瞬時、馬車は忽ち橋を駛り越えて、再び向ふ岸の巷の迷宮へと衝き進む。
博士はつぶやいた、「はハア、此分では今夜の招待は餘り賑かな處ではないわい。」
全く我々は何時しか怪しげなる郊外へ運ばれてゐた。陰氣な煉瓦造の家が長く續いて、處々の隅に可厭に派手々々しい洋館が野鄙な輝きを見せて居る。それを通り越すと、各々小やかな前庭を持つた二階造の別莊が列び、次にはまたもや目立つほど新しい煉瓦屋の長い列が現はれた――巨大なる帝都が田舍の方へニユツと伸ばした異形の觸覺、それを傳ふて我々は駛つて行くのだ。兎角して馬車は新しき露臺のある一軒の家の前に駐つた。近所の家は空家らしい。馬車の駐まつた家と雖も、勝手の窓を洩るゝ一條の光線の他は總て黒暗々である。併し御者の男がホト/\と訪ふ聲に、扉は忽ち内より開かれて、一人の印度人らしい僕が現はれた。黄色の頭巾、白きダブ/\の衣裳、同じく黄色の腰帶――さういふ東洋風の服裝した男が、此邊の平凡なる郊外の家の入口を枠として突立つた光景は變に何となく不似合な感じがした。
「大人、お待ち兼ねであります。」
と僕が言ふ間もなく、奧の方の室より高い笛を吹くやうな聲が聞える。
「眞戸迦よ、御客樣をお通し申せ、ズツと此方へお通し申せ。」