一、差出人無き眞珠の小包……
父を尋ぬる可憐の一美人……
「かういふ若い御婦人の方が貴方樣にと申して御訊ねで
厶います」。
と取次の者が、一枚の
女形の名刺を
呉田博士の
卓上に差出した。
夫を受取つた博士は「なに、
須谷丸子、一向に知らぬ名だが、まア通して下さい。いや
中澤君、外さなくてもよい、君も居た方が
好い。」
間もなく須谷丸子は
確乎した
歩調で、沈着の態度を
裝ふて我々の
室に入つて來た。金髮の色白の若い婦人である、
背は小柄で、綺麗な人だ。手袋を深く
穿め、
此上もなく上品に身を整へてゐる。が、何處やらに質素な風のあるのは餘り
裕な
生活をして居る人ではあるまい。飾りもなければ、編みもない
燻だ鼠色の衣裝、小さな鈍い
色氣の
頭巾、その片側に
些ぴりと
挿した白い鳥の羽根がそれでも
僅に若々しさを添へて居る。顏は目鼻立ちが整ふて居るわけでもなければ、容色が美なる譯でもなけれど、その表情がいかにも
温淑、可憐に滿ち、わけても大きな
碧色の眼が
活々として同情に溢れて居る。自分(自分とは、中澤醫學士のことなり。本書は中澤醫學士の記録により著述せし故、「自分」又は「予」といふ
文字多し。)は隨分
各國人に接して色々の女を觀察したけれども、
未だ此樣な優雅敏感の女を見たことがない。と同時に自分はまた斯ういふ事も
見遁さなかつた、それは博士が勸めた椅子に腰掛けた時に彼女の唇が
顫へ、その手が
微に
戰いてゐた事である。何か餘程
烈しい心の苦悶を
抱いて來たらしい。
偖て客は口を開いて、
「先生、
私、先生の事をば私が只今御世話になつて居ります築地の
濠田瀬尾子樣から
承つて御伺ひ致しましたので
厶います。何か一度家庭の事件を御願ひ致しました時に、大層御上手に、また御親切に
御骨折り下さいましたと申しますことで、」
「濠田瀬尾子さん、はア、
極く些細な事で、一度御相談に應じた事が有りました。
「でも、濠田樣は大層感謝していらつしやいます。私のは先生、其樣な些細な事では
厶いません。ほんとに私、自分ながら私の話ほど奇體なことが世に有らうかと思ふので
厶いますよ。」
「
承りませう。」と博士は手を擦合せ、眼を光らせて
※[#「執/れんが」、U+24360、5-9]心に椅子から
體を乘出させる。
自分は少しく自分の立場に困つたので、「僕は
些と失禮します。」
と立ちかけると、意外にも客は手袋の手を擧げて
押止め、
「アノ、どうぞ、御迷惑でも御一所に御聞き下さいますれば
幸福なので
厶います。」
と言ふので、またもや腰を下ろす。
「手短に事實だけを申上げますれば此樣な譯なので
厶います。」と丸子は言葉をつぎ、
「一體
私の父は
英領印度植民地駐屯の
或聯隊の
將校で
厶いましたが、私はまだ極く幼い折に母を失ひまして、
英國には他に親戚も
厶いませんので僅かの
知邊を便りに、
横濱のハリス女學校の寄宿舍へ入れさせられまして、そこで十七迄
過しました。其卒業の年で厶います、父は聯隊の先任大尉で
厶いまして、十二ヶ月間の休暇を得て
上海に出て參りました。上海へ着きますると私に電報を打ちまして、久振りで早く逢い
度い
故至急上海の
蘭葉旅館へ
來よと
厶いましたので、私も急いで神戸から船で上海に
行きまして、其
旅館へ參りますと、「須谷大尉樣は
確に
當方[#ルビの「たうたう」はママ]へ御泊りでは
厶いまするが、
御着の晩
些と外へ御出掛けになりました
限り御戻りが
厶いません」とのことに、其の日は一日待ち暮しましたけれど歸りまでぬ。で、
其夜旅館お支配人の忠告に
基きまして、警察へ搜索願を
出だし、翌朝の諸新聞へ廣告も致しましたけれど、何の甲斐もなく、
今日に至る迄も更に行衞が解りませぬ。父が印度から上海へ參りましたのは、安樂な平和な餘生を見付けますためで、それは/\希望に滿ちて參りましたのに、それどころか
却て
其樣なわけにないまして―――。」
と言ひさして、
堪やらず
咽び返つて
了ふ。
「それは
何時頃の出來事ですか。」
と呉田博士は手帳を開く。
「今から十年
前の十二月三日で
厶います。」
「荷物はどうしました。」
「
旅館に殘つて居りましたが、
手懸になりさうな物は一つも
厶いませんでした。着物や、本や、
安陀漫群島(印度と
馬來半島との間、ベンガル
灣中の群島)から持つて參りました珍奇な産物なぞばかりで――父は其島の囚徒監視の爲めに出張いたして居りましたから、」
「上海には御尊父の御友人はなかつたのですか。」
「私の存じまする所では
僅た一人
厶いました。夫は
山輪省作樣と申しまして、矢張り父と同樣ボンベイ第三十四歩兵聯隊の少佐で
厶いましたが、
此方は父が上海へ參りますより少し以前に退職致しまして上海に
御住居で
厶いました。無論其當時山輪少佐にも御問合せ致しましたけれども、少佐は父が上海に參つた事さへ御存知ないとの御返事で
厶いました。」
「不思議な事件ですな。」
と博士が言つた。
「いえ、まだ/\不思議な事が有るので
厶いますよ。六年ほど以前の四月の四日、東京英字新聞に「須谷丸子孃の現住所を知り度し、孃の利益に關する事件あり」といふ廣告が出ましたのです。
然雖廣告主の
姓名も住所も書いて厶いません。其頃私は
現今の濠田樣の
御邸へ家庭教師に入つたばかしで
厶いましたが、濠田樣の御勸めに任せて其番地を新聞で答へたので
厶います。しますると直ぐ其日の
中に小包で一個の
名刺凾が誰からともなく私に
宛て到着致しました。開けてみますると、非常に大きな立派な眞珠が
一個入つて居りました。それからと申すもの
今日迄六年の間、毎年同じ月の同じ日になりますと、
一個づゝ眞珠が屆きまするが、差出人は更に解りませず、寶石商に鑑定して貰ひますと、世に珍しい高價な物だと申しますので、コレ、此樣に結構な物で
厶います。」
と
一個の
平い小凾を開けて差出すのを覗けば、成程
甞て見ざる眞珠の珍品六
個が
燦然と光つて居る。
[#「光つて居る。」は底本では「光つて居る。」」]
「實に面白い。それで他に何か新事實が起りましたか。」
と博士が訊く。
「ハイ、それがつい
今日なので厶いますよ。そのために斯うして御伺ひ致しましたので厶います。實は今朝ほど此樣な手紙を受取りましたので、
何卒先生御覽下さいまし。」
「ドレ/\、そちらの封筒を
先づ
先きに……消印は江戸橋局ですな、日付は十一月七日ふン! 隅に男の指紋があるが……多分配達夫のでせう。
紙質は最上等、一
帖十錢以上の封筒です。これで見ると差出人は文房具に贅を
盡す人らしい。さて
本文は……差出人が書いてない。えゝと、文句は、
孃よ、今晩正七時、劇場帝國座入口、左より三番目の柱の處に待ち給へかし。若し不用心と思召さば御友人二名を御同伴し給ふとも苦しからず。貴孃は或者より害を蒙らしめられたる不幸なる御身の上なりしが、今宵の御會見によりて幸福の御身に立ち返り給ふべし。ゆめ/\警官をな伴ひ給ひぞ。警官を伴ひ給はゞ何の甲斐もなかるべし。――未知の友より。
「成程、非常に興味のある怪事件ですな。須谷さん、貴女はどうなさる
御意か。」
「
否、
夫を御相談致し度いので
厶います。」
「では無論參らうではありませんか。貴女と私と――おゝ、中澤學士といふ適當な人がある。手紙には友人二名同伴苦しからずと有りませう。此中澤君は始終
俺と一所に働く人です。」
「ハ、けれど行らしつて下さいますか
知ら。」
と丸子は嘆願的の聲と表情とをした。
自分は
※[#「執/れんが」、U+24360、12-9]心に、
「參りますとも。
私でも御役に立てば滿足です、
幸福です。」
「まア、兩先生とも御親切に有り難う厶います。
私、ほんとに
孤獨で厶いましたから
此樣な時に御相談致す御友達とては一人も無かつたので
厶いますわ。では今晩六時までに
此方へ
上りまして宜しう
厶いませうか。」
「六時よりお遲れなさらぬやうに。あゝ、もう一つ、此手紙の
手蹟は眞珠の小包の手蹟と同じでせうか、違ひますか。」
「小包の方も
皆持つて參りました。」
と六枚の
包紙を
差出[#ルビの「さしいだ」は底本では「さしびだ」]す。
「あゝ、仲々御用意の周到なことぢや。」
と博士は夫を
卓子の上に廣げて手紙の文字と比較して見たが、博士の意見では小包の方は
悉く
態と手を違へて
書てあるけれど、正に手紙の手蹟と同一人に相違ないと斷定した。
[#「斷定した。」は底本では「斷定した。」」]
「須谷さん、これは御尊父の御手とは違ひませうな。」
「似ても似つかぬ手で厶います。」
「さうでせう。宜しい、では六時に御待受けしませう。此等の手蹟は
暫時御預けを願ひ度い。事は
熟くと研究して見ませう。今はまだ三時半です。では、サヨナラ。」
「では後刻、御免遊ばせ。」
と丸子は
活々とした
懷しげの
瞥見を我々の顏に投げ、眞珠の
函を
懷中に收めて急ぎ出て行つた。
[#「出て行つた。」は底本では「出て行つた。」」]
自分は窓際に寄つて、巷を小刻みに歩み
行く彼女の後ろ姿を目送した。その鼠色の頭巾と白い鳥の羽とが群衆の中に消去る迄立ち盡したが、ようやく博士の方を振向いて
「實に人の心を惹きつける力のある女ですな……」
と感嘆すると、博士は再び
煙管に火をつけながら、
「あの婦人がかね。フウ、
俺は氣が附かなかつた。」
「先生は本當に自動人形みたいです。時々先生の心は木石のやうに
冷々となることがあります。」と
眞面になつて云ふと、
「それが
不可。個人の質によつて判斷を
偏頗ならしむるのが、第一に好くない。」
と、これから、問題の前には人間を單に一個の因子と
見做すといふ例の先生の非人情論を聞かせられ、人は
外貌によらぬものといふ實例を一つ二つ聞かせられ、最後に丸子の殘し
行きし手蹟の鑑定が有つたが、博士の觀察によれば、
苟も日常
文字に
携わはる者は
斯る
亂次なき筆法を忌む、此手蹟は一面優柔不斷、一面
自惚の筆法であると罵倒した。そして博士は尚ほ二三の調査事項が有るから、一時間ばかり外出して來ると出て行かれた。
自分は窓際に腰掛けたが、心は今日の美しき客の上に走つて居た。――あの微笑、あの
豐麗なる聲の調子、彼女の半生を覆ひし奇怪なる秘密、
夫等が
總て胸に湧いた。父の行衞不明の時が十七歳とすれば
今年正に二十七歳である――旨味のある年頃だ。青春が其自覺を失ひ、人生の經驗に觸れて少しく落着いた生涯に入らんとする年頃だ。予は腰掛けしまゝそれから
夫へと沈思に
耽つたが、ゆくりなくも或危險なる思想が頭のなかに閃き出したので、
衝と立上つて我が机に走り寄り、此頃研究中の最近病理學の論文の中に沒頭せんと試みた。我れ何者ぞや、
僅に醫科大學を
卒へ、大學院に籍を置く一介の書生の身にして、
假令にも
左る
大それた事を
念ふ無法さよ。然り、彼女は單位である、因子である――それ以上の者ではない。もし我が將來にして闇黒ならんか、男子決然それに
對ふのみ、なまじひに想像の鬼火を以てそれを輝かさんと欲せぬこそよけれ。