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 死刑か無罪か
 THE ADVENTURE OF THE BOSCOMBE VALLEY MYSTERY
 コナンドイル A. Conan Doyle
 手塚雄訳
 

(四一)「然し善二でなければ誰が有罪だろ?」
「誰がッてまあ、考へて見給へ、二ッの肝腎な點があるぜ一ッは親爺が池のはたで誰かと約束があつた事、そのだれかは善二の筈はない、善二は留守中で何時歸るか知れなかつたんだもの、第二には善二の歸つたのを知らぬ内にクイーと※[#「口+斗」、U+544C、35-7]んだね、此二點が最も肝要なのさ、さあ、ともかく、こまかい話は明日あすに讓つて今夜は是れで小説の談話はなしを仕やうや」
 翌朝は本田豫言の通り雨どころではない、誠によく晴れ亘つて天に一點の雲がない、九時に虎澤が馬車で來て聲を掛けたから俺等は揃つて平澤原、保須池の方面に向つて出發した
(四二)虎澤「今朝重大なことを聞いたぜあの大館の棚橋親爺が危篤で醫師も匙を投げたそうだせ」
 本田「としも年だろ?」
左樣そうもう六十前後だ、外國で苦勞したので身體からだも大部いたんで近來兎角病氣勝だつたが此度の事件で一層重くなつたのさあ、彼はあの卷山とはもとからの知合で平澤の畠地を只で小作に呉れて置いたそうだからまあ卷山からみれば大恩人といふ格だ」
 本「左樣か、そりあ大切な事だな」
 虎「そうさ、それから、まだ外に色々な親切を仕て遣つたのだ棚橋の卷山に對する好意といふものは此界隈切つての大評判だ」
(四三)本「左樣か、夫れぢあちとへんぢあないか、卷山は無財産でそんなに棚橋に厄介になつて居り乍ら自分の息子を棚橋孃に結婚させ樣とした事は、棚橋の財産はやがて娘のものだろ、それで申し込みさえすれば結婚は大丈夫出來る樣な語調くちぶりではちと變ぢあないかそれで棚橋親爺は反對だから益々變だ是れはみんな棚橋孃の話だ、君此變手古な事實から何か推量は出來ぬか」
 虎澤はおれ[#ルビの「おれ」は底本では「おれに」]に目くばせしながら(爰にも我党が御座るといふ眼相まなざしで)
「推量も憶測もやつて見たが事實を掴まへるのが骨だ、兎角空論や、忘想を遣りたがつてかん」
(四四)「御有理ごもつとも」と本田は勿體もつたいぶつて「事實を掴まへるのが君には隨分骨だね」
「然し僕は君等の見出し得ない事實を掴へたぜ」と虎澤は本氣になつて云ふ、
 本「何を?」
 虎「卷山親爺が息子善二に殺されたんだ是れは天日の如く明かだ此反對説は悉皆みんな天月のひかり位なものさ」
「天月のひかりでも濃霧よりは明るいよ」と本田は笑ひながら。「それはともかく此左手に在るのは卷山の屋敷だろな」
うん、左樣だ」
 たて宏快ひろ/″\とした二階造り、屋根は石葺いしぶきで灰色のかべには黄色きいろこけ斑點まだらを成して風流ゆかしいがまどすだれり烟突に煙が揚がらぬので何となく寂寥ものさびし過日このあいだの愁傷がだ未練を殘して家までがふさいで居る樣、
(四五)戸口で聲を懸けると家婢が出て來た、本田の請に應じて長靴二足を見せた、一足は卷山親爺が殺された時いて居たもの、他の一足は息子善二のもの是れは其時いて居たのでは無かつた本田はくだんくつを取つて七八個所叮嚀に寸法を執つた後、裏庭うらにわへ案内して呉れと請じ其所を蜿蜒うねつた道を辿たどり保須池に出た、
 本田宗六は斯樣な探偵事たんていことに熱中して居る時は宛然まるで生れ變つた樣になるのでとてもこれが宇城町の靜思家で理論家たる本田とは思へぬ程顏は赤く晃いてけわしく二條ふたすぢの眉毛は黒くたけく其奧から兩眼は鋼鐵の如く光つて居る顏は俯向うつむき肩は弓形ゆみなりに曲りくちびるは一文字に結び、長い肉付のくびにはふとい青筋が立つて居る、
(四六)鼻孔を膨げて行く樣はさも獲物を追ふ獸の樣だ渾身の注意を眼前の一點にあつめて傍目わきめらず進み行く何程なんぼはなし仕掛しかけても馬耳東風で受けこたいがない、偶然たま/\こたへた所でれッたい樣にグーと素速くうなるが關の山、疾風の如く速かに唖者の如く無言で草原の小路を辿たどつて往き森をくゞつて保須池にた其邊は皆、沮洳しめりがちで、道のおもて、小草の上には、多くの足跡あしあとが見える草の上の足痕あしあとはやはり草で圍まれて居る、本田は急ぐかと思ふと突如ばつたりとまつたり、又急に振り返つて草原へ這入つたりして行く、虎澤もおれあとついて行くが、なにせ虎澤は黒人くろうとの探偵官本田の奴碌な事は出來まい位な顏で行く、然しおれは彼の一擧一動は必ず確乎たる一目的に向つて進む階段であると信じて居るから本田を見戍みまもりながら進んだのである、
(四七)保須池は葦で[#「葦で」は底本では「葦て」]かこまれた小さい沼で直徑三十間ばかりしかない、平澤の田圃たんぼと棚橋家の庭園との境をなして居る池の先方に森林もりがあつて緑のへりを成して居て其の上に赤煉瓦の塔が二つ三つそびえて居る、是は即ち棚橋家の住宅で金持相應に立派である、平澤の方面には蔚然こんもりしげつた森と水端みぎわよしとの間はゞ二十間程の間水草が生えて帶をいた樣に見える、虎澤に案内されて屍骸の在つた場所を見るに池は濕めつて居たので被害者の臥れた痕跡あとが明丁に見える、本田の思ひ詰めた顏じつ[#「目+爭」、第3水準1-88-85]見て居る眼光まなざしも踏み付けられた小草から被害者の痕跡以外に多くの事實が發見される樣であつた
彼はぎ付けて居る犬の樣にぐるりッと走り廻はつて來て虎澤に向つて
(四八)「君何の爲に池へ這つたの?」
 虎「武器か何か有るかと思つて熊手で搜したんだ、君はまあ如何どうして左樣そんな事を?」
だまれ/\急がしい、君のその内側を向いて居る左足のあとが方々にあるぢあないか(盲目めくら)のもぐら[#「鼬」の「由」に代えて「晏」、第3水準1-94-84]でも其位の事は見付えるよ、で葦の中には見えないんだ、一體みんな恁麼こんなにがや/\水牛うし群程むれほどつて來なかつたらもつと足痕も明かで容易たやす探搾しらべが付いたんだがね、ほら此所へは番人どもが來たに違いない此通り屍體の周圍一間ばかりは足痕だらけだ、おや此所には別に三通りの同じ足痕があると彼は透鏡レンズを取り出して防水布を敷き其上に横ざまに臥してく見る、終始獨りごといふ樣に「これが善二の足で二度歩るいて居るし一度疾走はしつて居る爪先つまさきが深くてかゝとが見えない位だこれは成程彼の申立の通りで親父が臥れて居るのを見た時は走つたに違いない、
(四九)それから此所に親爺の足痕がある彼方此方あちこち歩いた樣子だ、では是は何だ。これは銃床の跡だ善二が親爺の説法を聽いて居た時に銃を立てて居たのだろ、是は何? はゝ成程、爪先、爪先[#「爪先、爪先」は底本では「瓜先、瓜先」]、ッとみんな四角になつて居るぜ妙な靴だな、來てつてまた來た、勿論是は外套を取りに來た奴だな、はて、何所どこから來たんだろ」本田はかけ足になつて往つたりもどつたり、足痕を見失つたり見出したりつひ森の端の圖拔ずぬけて大きいぶなの樹のもとまで來た、彼は足痕を追うて此の樹の先側むかうがはまで往きまた俯向うつむきふせつて「めた」といふ樣に叫ぶ長時ながらくそのまゝ其所そこに居て木の葉や枯枝かれえだなどをひッくり返して見たり塵芥ちりの樣なものを袋の中に詰めて手の屆くかぎ透鏡レンズで地面のみならず木のかはまで檢査する
(五〇)こけの中にぎざ/\した石があつたがこれ迄も整然ちやんとくらべて袋におさめまた一つの足痕について森を通り拔け大道に出たら足痕は見えなくなつた「いやなんとも面白かつたよ」と本田は平素つねの顏に直つて「此右手にある薄黒うすぐろい建物が宿いどだつたに違いない、一寸這入つて娘(森山さだ子)と話して見やう筆記かきとめる事でもあればとめて置かう、それが濟んだら歸つて晝飯ひるめしと仕やう、君等は遠慮なく馬車まで往つて居給へ、僕は直後すぐあとから」
 それから十分程つと馬車で露須町へ着いた、本田はまだ森の中でひろつた石をもつて居る、


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