死刑か無罪か
THE ADVENTURE OF THE BOSCOMBE VALLEY MYSTERY
コナンドイル A. Conan Doyle
手塚雄訳
(二一)歸宅後少時にして拙者は馬車の響を耳にしたり由つて窓外を見しに愚父は馬車より下り卒然庭園外に出て往けり如何なる方向に向へりや拙者は知らず、拙者は小銃を手にし保須池方面に向へり、そは池の先方に位する家兎飼育場に至らん爲なり、途中家兎飼育場番人黒田宇作に遭へり此事實は宇作が申立て中にもあり然れども拙者が愚父に跟從て行けりとの申立は誤てり當時拙者は愚父が前方に在るや否や毫も知らざりき、池を離る凡そ六十間の所に到りし時拙者は「クイーといふ※[#「口+斗」、U+544C、15-4]聲を耳にせり「クイーとは愚父と拙者との間に常に用ゐられたる信號なり、
(二二)拙者は急ぎ歩を捗めし時愚父は池畔に佇み拙者を見て驚ける風なりしが憤然として何用ありやと拙者に訊へり是より兩人の對話となり、爭論となり、殆ど格鬪に及べり、本來愚父は短氣の性なればなり、父の怒氣制し難きを知りて拙者は其場を去りて平澤方向に還らんとし凡そ一町程進みし時後方に悲鳴の揚るを耳にし驚きて走り歸りし時愚父は重傷を負ひて地上に臥し將に絶命せんとするを見驚きて携へし小銃を捨て、双手を以て父を抱きしが父は直時絶命せり
(二三)拙者は數分時屍體の傍に跪坐せし後最近の門番の家に至り補助を乞へり、拙者は歸りし時、父の傍に何人をも見受けざりき故にその負傷は何故なりしか知らず父は本來無愛嬌の人なれば人望を博せし事もなかりしが亦害を加ふる程の敵をも有せざりき、と記憶す、
以上拙者は本件に關し知る所を云ひ盡したり
檢事「其方の父は死際に其方に向つて何か云つたか?」
被告「少しもぐ/\云ふた樣で御座りましたけれども私には何の事やら分りませんでした、只ラツト(鼠)の事か何か云はれた樣に存じます」
檢「其方は夫れを何と解釋したか?」
(二四)被「一向何の意味だか分りませんでした、氣でも狂つて居るのだろと思ひました」
檢「其方が父と爭論したのは何事に關してであるか」
被「それには御答は申し上げ兼ます」
檢「是非とも答へて貰ひたい」
被「本當に御答が出來ません、此事は殺害とは何の關係も御座いません」
檢「關係あるか無いかは當裁判の決する處である、其方若し飽くまで拒んで答へざるに於ては勿論其方の振りに歸するが良いか」
(二五)被「ハイ、何と仰在つても御答は出來ません」
檢「クイーといふ※[#「口+斗」、U+544C、17-8]聲は其方及び其方の父との間の信號であると聞及んだが果して左樣か」
被「ハイ、左樣で御座ります」
檢「然らば其方の父が其方を見ざる内に若かも其方が鰤須より歸りしを知らざる内に夫れを叫びしは何故であるか」
被(大に當惑の體で)
「何故か存じません」
豫審判事口を入れ「其方※[#「口+斗」、U+544C、18-3]聲を聞いて歸つた時父の死に瀕して居るのを見た時疑はしい者でも見なかつたか」
被「別に是れといふ物を見ませんでした」
檢「そんなら如何樣な者を見たか」
被「其場に驅け付けました時は胸騷しう御座いまして愚父の事より外は何も考へる餘裕は御座いませんでしたが」
(二六)私が驅けて行きます時に左の方に何か地上に横はつて居た樣な氣が致します、物は何でありましたか能く見ませんでしたが何でも鼠色の上衣か辨慶縞の袍衣の樣な氣が致します、私が立ちまして近所を見ました時はそれは既在りませんでした」
「其方が補けを求むる爲めに出發せる前それが無くなつたと云ふのか」
「はい左樣で御座ります」
「其れは何物であるか知るか」
「否存じません只何か在つた樣な氣が致しました」
「屍體から如何程離たつて居つたか」
「六間位でした」
「森の端から如何位離たつて居たか」
「矢張六間位の樣でした」
「若しその物が取り去られたとすれば其方から六間以内の所で取り去られたのだな?」
「左樣存じます、然し私は後を向けて居たので御座います」
檢事「卷山善二に對する審問はこれで終り」
(二七)讀み了つて俺は其一欄をじろりッと見下し本田に向ひ
「あの檢事は審問の終結間際に善二に對して些、酷《ひど》く訊詰たね、善二の父が善二を見ぬ先に信號を叫んだ事と善二が會話の詳細を答へなかつた事と死際の言葉が分らないと云ふた事とは如何にも齟齬の點だが此點を注意したのは道理の譯だね、これは檢事も云ふた通り善二には隨分不利な點だね」
本田は靜かに打笑つて臺蒲團の上に横臥りながら
「君も檢事も善二に利益な點が見付からないで骨が折れる樣だね御苦勞樣だ、よくも揃つて善二を考へが深いの淺いのッて[#「淺いのッて」は底本では「殘いのッて」]彼れ是れ云ふ樣だが良加減にして呉れ給へ喧嘩の原因は是れ/\だなんて嘘八百を烈べ立て得ないッて淺墓だと評したり死際に鼠(ラツト)を擔ぎ出したり布物が消えて了つたといふのを、よくも良心に耻ぢないでそんな突飛な嘘が吐けたものだなんて左樣湯煮たり冷やしたりするんだから變ぢあないか、僕は目星の着所が全く違ふよ、先づ卷山の云ふ事を信實と見て、假設を規めてそれからそれへと考へ及ぼして見るのさ、まあ今日はそれだけにして置いて後は現場へ往つて見てからの事に仕やうや、西原で飯をやつて二十分ばかりして着くんだからおいほらペトラーク山人の詩集があるぜ是れでも讀まうよ」
(二八)風景佳絶の石垣谷を越え洋々銀を流したらん樣な相梨川を渡り露須町に着いたのは午後の四時頃停車場の昇降台には瘠形で鼠面の(眼小さく兩眼の距離狹い)狡い樣な男が歡迎に出て居た、淡褐色の外套に革製の脚絆を着いて居るのは山野を驅廻る用意と見受けられる、これは探偵本部の虎澤であると早速分かつたので倶に馬車を傭うて平戸館といふ旅館に赴いた、此所には既吾等一行のために部屋が分取つてあつた、
茶を飮んで居ると虎澤が本田に向つて
「僕は馬車を命じて置いた、君は隨分精力家だから一刻も早く現場へ往つて見たいんだろと思つて」
本田「そりや有難い、然し低氣壓の具合は如何だろ」
(二九)虎澤は驚いた面相で
「低氣壓に何の用があるか、僕には君の云ふ事が分らん」
「あの晴雨計は如何だい、うん二十九度だね、風も無し、雲も無し、先づ今夜は往かぬが益だろ、それはそうと僕あ煙草を一箱持つて來たから、喫むが良い、此長椅子は別して具合が良い田舍の旅人宿にやこんなのは珍らしい聞いた虎澤は惜氣なく笑つた後
「君は新聞で大低見當が着いたろ、何しろ今度の件は明白なものだね、考へれば考へる程明白だね、時に君、某婦人が君に會たいといふが如何だ勿論會つて呉れるだろな、其婦人といふのは隨分強情なのさ、君の世評も聞いたので是非會つて意見を伺ひたいと氣張つて居るのさ、君のやる位な事は乃公も出來るから止せ/\と何偏云つても聞かないんだが、ほら來たぜ門に馬車の音がする」
(三〇)と云ふを合圖にどッと室内に驅込だのが素敵の別嬪、恁麼別嬪は臍の緒切つてから初めて見た[#「初めて見た」は底本では「始めて見た」]、兩眼は菫菜色で星の光がある、開いた口が牡丹で兩※[#「夾+頁」、第3水準1-93-90]は芍藥の紅、胸が動悸やら苦悶やらで平素の嬌態も造り兼ねた樣子
「おゝ本田宗六樣」と婦人は吾等三人を瞥と見て※[#「口+斗」、U+544C、23-11]女性の敏捷覺知が利いて凝と本田を睨み据ゑ
「好くまあ、入來して下さいました、で今日御禮旁々參つたので御座います、善二さんからは無論御話しが無かつたでしやうね妾みんな存じて居ります詳く御承知の上に盡力願ひます、何卒御疑なく願ひます、妾善二さんとは小供の時分からの知り合であの方の欠點とてはもう微塵もありません本當に虫も殺さぬ温情しい方なんですよ、それにあの嫌疑とは本當に無法ぢあありませんか、誰だつて善二さんの人柄を知つて居りますれば、そんな嫌疑は無法だと思ふんですわ」