名馬の犯罪
三津木春影
11…馬蹄に蹶られしは是れ天罰…………名馬銀月の神通力?…………
問はれて博士は熟と男爵の顏を瞻つめながら
「さあ何の目的でしたらうか。私の考へでは無論不正な目的であつた。で無うて、自分の使ふてをく馬飼に麻醉劑を與へる必要が何でありませう[#「何でありませう」は底本では「行でありませう」]。一寸御聞に入れるが以前川崎の競馬場でさういふ事件があつた。……それは第一等の馬を監理する調馬師が態と代理人を使ふて第二等の馬に澤山の賭金をして置き、密に自分の預かつて居る第一等の馬を傷つけて競爭に負けさせ、莫大の儲けをしたといふ話がありますのぢや。所で彼奧花の目的は何であつたか。それは彼の懷中の所持品を見て初めて斷定することが出來ました。
お忘れもなさるまいが、彼が現在手に握つて殺されて居たのは一挺の奇體な小刀でした。護身用の武器としては誰かあの樣な柔いものを撰びませう。中澤君も言ふた如く、あれは非常な微細な仕事に用ゐる外科醫などの小刀です。然るに、あの晩にも小刀は微細な仕事の爲めに使用されました。畑野さん、貴君は多年競馬に御關係ぢやから御存知でせうが、馬の腿の所にある腱へ極く僅な傷をつけることは容易な事ですぞ。而かも巧みに皮下手術的にやれば、何の傷跡も殘らぬやうにやれます。さうされた馬は心持ち跛を曳くが[#「跛を曳くが」は底本では「跛を曳くか」]、傷跡がないゆゑ筋違ひでもしたか、それともリユーマチスにでもかゝつたかと思はれるまでで、決して腱を切られたとは感付かれない。」
「フム、實に猾い奴ぢや! 惡黨ぢや!」
「それで奧花が馬を連出して野へ行つた譯が御解りでせう。廐の中で行ふた日には馬が暴れるから、どの樣な寢坊な者でも眼を醒ますに違ひない。依て是非とも野の中でやる必要があつたのですて。」
「あゝ、私は盲目でした! 彼奴が角燈を用意しマツチを※[#「てへん+摩」、171-7]つたのも其爲めです。」
「勿論さうです。併し彼の所持品を調べて居る中に、私は單に彼の犯罪の方法を知つた耳ならず、その動機迄をも感付きましたのぢや。と云ふのは彼は新倉連三なる者へ當てた東京の呉服屋の受取證を持つて居ました。どうでせう男爵。御互に他人の受取證を持つて居るといふ事は、日常の生活で常に有りうべき事でせうか。極めて稀な場合ではないですか。だから私は、ハヽア奧花といふ男は二樣の生活を送つて居る、この新倉連三とは即ち彼の僞名であるまいかと悟りました。この上書付の表を見ると女物ばかり買つてある。即ち事件の裏面には一人の女が潜んで居る。而も極めて贅澤な女であることが解つた。一本八十圓の丸帶を締めるのは先づ贅澤な女と申して宜しいぢやらう。私は玄關口で奧花の妻君に出會つた時に、試みに其書付の中にある衣裝を列べて問ふて見たところ、細君は其樣な立派な衣類を着けた事がないと言ふた。其處で私は此の細君は奧花と共同して惡事を働いて居ないといふことと、他に其の高價なる衣類を與へて居る女があると云ふことを明白に知り得た。で、私は呉服屋の番地と店名を書留め、尚ほ奧花の寫眞を鹿島警部から借りて、この新倉連三なる者の正體を探らうと思ふたのです。
それからは萬事がすら/\と解決されました。奧花はつまり他所から燈光の見えないやうな野の窪地へ馬を引張つて行つた。で、襟卷は彼が夕刻、見廻りさした時偶然其の途中で拾ふたもので、比志島が落とした物であるが、奧花は丁度馬の脚を縛るに都合好いとでも思ふて持つて行つたのであらう。で、彌々窪地の底へ降りると、外套を脱いで藪へ掛け、小刀を持ちながら、マツチを擦つて角燈を點けやうとした。すると炳然と闇を照らした其光に驚いたものか、または一種の動物の本能性によつて、自分が何か危害を加へらるゝものと直覺したのか、兎に角馬は猛然と躍り上つて、其拍子に鋼鐵の馬蹄で、屈んでゐた奧花の前額を力任せに蹴上げたのです。額はバツクと割れる、血潮がダク/\と眼に侵入する、既に昏迷して蹌踉と倒れる際に、ソラ、手に持つた小刀が我と我が股をグザと突いたのです。つまり、奧花の慘死は、惡者に對する天罰ともいふべきです。」
「實に驚きましたなア! 驚きましたなア! 宛然目撃して居られた樣ですなア。」と男爵は續けざまに感嘆した。
「いや最後にそれ以上に的中した事がありますぞ。私の考へでは、奧花の如き惡賢い男が、馬の腱を切るといふやうな細い難しい仕事を突然にやるものではない、屹度何か豫備の試驗を行ふて見たに違ひない、とかう思ひましたのぢや。が、果して何で實驗を行ふたのでせう。と、圖らずも廐の傍で見掛けたのは例の豚ですわ。それで念のため一人の馬飼に訊いて見ますとな、驚いたことには四五日前から二三疋の豚が跛を曳く………。」
「實に御慧眼には恐入りました!」
「そこで東京へ歸つてから、早速その呉服屋を私は訪ねました。そして奧花の寫眞を出して見せると、此方は新倉樣と仰有つて大の顧客樣で、始終奧樣と御一所に御出でゞすが、奧樣といふ方は流行好きの非常に贅澤な方で厶いますといふ番頭の話ぢやありませんか。つまり彼奧花をして身分不相應の[#「身分不相應の」は底本では「自分不相應の」]金を浪費せしめ、其結果金を欲しいばかりに犯罪を敢てせしむるやうにさせたのは此婦人の力であるのです。而して犯罪の當夜、下女を驚かし、馬飼の當番を怒らしたのは恐らく、奧花が變裝してこのやうな計畫をしたのではあるまいかと思ふ。夫れは銀月の腱を傷めて後、事がうまく成効した曉、銀月の傷けられた事などを巧みに言ひくるめるに必要である彼の惡計畫であつたやうに思はれるのですが今は其處まで追及する要はありません[#「要はありません」は底本では「要はありまん」]。」
「あゝ、それで何もかも明瞭になりました。御骨折りに對しては何と御禮を申上げて好いか解りません。」と男爵は慇懃に頭を下げた。「が………併し、序でに御訊ねしますが、あの銀月ですなア、あれは一體今日迄どこに居つたのでせう。」
「巧ですか。馬はそれから跳出して、御近所の或廐の中に慝まはれて居たのです。併しそれについては貴君は寛大な御處置を取らねばなりませんぞ。………いや、其方の詳しいお話は中澤君に代つてして貰ひませう。」
中澤醫學士は博士の話を切取つて、銀月搜索の模樣を物語つた。男爵は唯もう博士の活眼達識に驚く許りであつた。そして話が漸く終る頃、汽車は上野驛に靜々と入つて行くのであつた。