名馬の犯罪
三津木春影
5…珍しい外科醫の小刀…………怪しき呉服屋の受取證…………
呉田博士はそれきり默つて車の後に倚り掛つたので、警部との問答は一先づ絶えた間もなく自動車は町を離れ、並木路を馳せ、緩かな丘の裾を繞つて終に畑野男爵の別莊の前に止まつた。
他の三人は玄關の前でヒラリと飛降りたが、博士ばかりは相變らず膝を抱いて、眼を遠方の地平線に据ゑ、一心に何か默想に耽つて居る。で、中澤醫學士が下から上着の裾を引張ると、初めて吃驚して車から降りた。
其樣子を見て變な顏付をして居る男爵の方へ博士は向つて
「失禮、々々……ツイ空想に耽つて居つたのぢやから、ハヽヽヽヽ。」
併し博士の眼中には異樣な閃きが宿り、その態度には興奮を抑壓するやうな風が見えた。中澤醫學士は能く見慣れて居るが、これは博士が事件の解決の端緒を探り當てた時に毎時やる表情である。
「直ぐに現場へ御出でなさいませうナ。」
と鹿島警部が訊いた。
「その前にこゝで尚少し研究して見たい事があります。被害者の死體は多分別莊へ運んでありませう。」
「ハイ、二階へ運んで厶います。」
「畑野さん、奧花なる物は何年も貴君に仕へましたか。」
「さうです、非常に忠實に事へて呉れました。」
「兇行當時の被害者の所持品は御調べであつたでせうナ。」
と、再び鹿島警部に訊く。
「御覽になりますならば、階下の表の間に置いて厶いますから、御案内申しませう。」
「何卒。」
一同表の八疊の間へ入つて行く。鹿島警部は棚の上から一つの小箱を取出し、其中から雜多の品物を机の上に列べた。蝋マツチ、角燈、パイプ、卷煙草、懷中時計、二圓入りの財布、二三通の手紙……皆彼の懷中に入つて居たものであるが、最後に取出された一つの物は忽ち博士等の眼を惹いた。それは象牙の柄のついた、刄の非常に鋭利な、撓み易いほど薄く出來た一挺の小刀であつた。
博士は取上げて仔細に裏表を調べながら
「隨分變つた小刀ですなア。血痕の附着して居るところで見ると、これが被害者の手にあつたものですな。中澤君、君はかういふものを知つて居る筈ぢや。」
「これは先生も御存知でせう、我々が外科の方で使ふメス………あれとも少し違ひますが、まアあれの大形なものでせうなア。」
「私もさうは思ふた。兎に角、極く細な仕事に用ゐるために斯う薄刄にこしらへたものぢや。此樣な物で、自分に危害を加えへやうとする敵を防がうとするのは奇體な話ではないですか。」
「これは死骸の傍に見付けたのですが、この小刀の端にはコルク製の鞘がはめてありました。」と、警部はその鞘を取出して「奧花の女房の申すところでは、小刀は五六日も先きから被害者の座敷にあつたので、先夜出掛ける時には確に持つて出たらしいと申すのであります。まことに脆いものですが。被害者は兇行を受ける際恐らくこれ以外に武器を持つて居なかつたらうと思はれます。」
「多分然うでせう。其等の書類は何ですか。」
「この三枚は乾草を買ふた受取證ですナ。この一通は男爵から用件の命令の御手紙です。またこれは新倉連三といふ者へ宛てた東京の或る呉服屋の受取證で、奧花の妻の申す所では、此新倉なる者は夫は自分の友人だと申して居たさうで、何かの都合でそんな受取證を預かつたものだらうと申して居ました。」
博士は受取證を一渡り讀んで見て
「新倉といふ者の細君は贅澤な婦人と見える。丸帶一本八十圓は奢つて居るではないか。が、それはそれとして、もう格別ここでは御訊ねする事もなさゝうですから[#「なさゝうですから」は底本では「なさゝさうですから」]、犯罪の現場へ御案内を願ひませう。」
一同再び玄關口へ立ち現れた。すると其處に三十二三かとも思はれる一人の婦人が待つて居た。丸髫の髮が潰れて、眼は泣き脹らした後のやうに赤く濁つて居て、酷く憔悴した其顏には烈しい悲哀の色が歴々と現れて居る。
「これが被害者の妻です。」
と、警部は博士に囁いた。
婦人は遠慮勝ちに腰を屈めながら、警部の傍に近寄つて
「あの………下手人はもう御見付かりになりましたで厶いませうか。もう御縛りになりましたで厶いませうか。」
と、※[#「執/れんが」、U+24360、131-10]心に潤み聲で尋ねるのであつた。
「いや/\未だですわ。併し此處にお在での呉田博士がわざ/″\此事件のために東京から御出張下すつたからねえ、犯人が確定するのも最早間もない事ですテ。」
「やア貴女が奧花さんの御内儀でしたか。貴女ならば、以前に畑野男爵邸の園遊會の時に確かに御目に掛つた事がありますぞ。」
と、博士はさも慣々しく挨拶した。
「ヘエ………否、私はツイ御見外れ申しまして………否、御人違ひで厶いませう。」
と婦人は怪訝な顏をする。
「人違ひではありません、確に貴女ぢやつた。ソレ貴女は千羽鶴を織出した厚板の丸帶を締めて、秋草の裾模樣の縮緬の衣服を着て居なすつたらうが………。」
「まア何う致しませう! 私共のやうな身分の者がその樣な贅澤な仕度を致さうたつて出來は致しません!」
「成程、々々、いや失禮………それで解つた。」
と、博士は頭を下げて警部の後に續いた。何が解つたのやら他の者には合點が行かない。