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 名馬の犯罪
 三津木春影
 

   4…自動車上の呉田博士……………………

 汽車はやがて松戸へ着いた。停車場ていしやぢやうへ二人の紳士が博士等を迎ひに來て居た。[#「迎ひに來て居た。」は底本では「迎ひに來て居た。」」]
 恐しく背が高くて髭が濃く、鋭い透徹すきとほすやうな眼をしたのは鹿島警部、洒落しやれた背廣せびろ鳥撃帽とりうちぼう、金縁の眼鏡を掛けたふとつた方は名馬銀月の持主畑野男爵であつた。
 男爵はそれと見るより丁寧に會釋ゑしやくして
「あゝ、呉田先生ですか、今回はわざ/\御出張を願つて御厄介をお掛け申します。既に今回の事件については、御承知のここに御居おゐでの鹿島警部が遺憾なく働いて下すつたが、併し奧花の加害者を見付け、馬を取戻すにはなほの微、さいの細に渉る研究を致す必要があらうと思ふて、そこで御多忙中御盡力を願ふたやうな次第でして…。」
「何か新しい事實が擧がりましたかナ。」
と博士は早速本問題に突き進む。
「いやどうも餘り成蹟が擧がらんで弱りました。」と鹿島警部は博士に挨拶して「色々お話申上げねばなりませんが、男爵の自動車が外に待つて居ますから御乘り下さいますれば道すがらくはしいお話を願ひませうと思ひまして。」
 間もなく此四人は一臺の自動車に乘つて、松戸町の郊外にある男爵の別莊へと向つた。途中警部は喋り續けて事件の報告をする。博士は時々短い質問を出すばかり。中澤醫學士は、はたからねつ[#「執/れんが」、U+24360、120-8]しんにそれを聽く。男爵は帽子を眼深まぶかに被つてうしろもたれて居る。警部はしきりに自分の意見を述べたが、それは博士が汽車中で豫想したと殆ど相違がなかつた。
「この比志島文助なる者の周圍にはもうギシ/\網を張りました。わたくしの考へでは彼奴きやつが確かに犯人らしいですが、併しその證據はと申すと誠に薄弱なものでしてなア、何か新事實が發見されましたらば直ぐにも轉覆ひつくりかへりさうなものですテ。」
「奧花の小刀ナイフについての御意見はどうであらう。」
「いや、あれは其後そのごかう言ふことに結着けつちやくしました。……被害者自身がたふれる際にでも[#「際にでも」は底本では「際にても」]股を傷つけたのだらうといふ事にまりました。」
「成程、それはこの中澤醫學士も同意見で、今も汽車中で話して參つたのぢやが、彌々いよ/\さうなると、比志島なる者に對する嫌疑がます/\深くなる譯ですナ。」
「さうで有ります。彼は小刀ナイフその他の兇器で蒙つた傷跡といふものが有りません。ですから洋杖ステツキ突然いきなりツつけたに相違ございますまい。彼が今迄銀月のために莫大の賭金を損したといふ事實から見ましても、また將來競馬をやるといふ上から見ましても、彼が銀月の紛失を希望するのは當然でございます。なほ彼は濱一なる馬飼の若者に魔醉劑を與へた證跡しようせきございます。前夜の暴風雨あらしの中を歩いたのは確實でありまするし、其他そのた重い洋杖ステツキたづさへ居たこと、その襟卷が被害者の手に握られてあつたことなぞ、此等の點から申しましても最早もはや檢事局へ廻す價値は充分ございませうと思ひます。」
 呉田博士はかしらを振つて
「いや/\、腕利きの辯護士であつたらば、其樣な證據は微塵に打碎うちくだきませう。まづ第一に、何故彼は馬を廐のほかに連れ出したものぢやらう。馬を害する目的であつたならば、何故廐の中で出來なんだらう、合鍵は果して彼が所持して居ましたか。粉末の阿片は何處の何といふ藥屋から買ひ求めました。それにぢや此地方に不慣れの彼が、何處に馬をばかくまふたらう。いはんや萬人ばんにんに知れ渡つたの如き名馬ではないですか。また何やら紙片かみきれを當番の馬飼に與へて貰ひたい樣な口振であつたさうぢやが、それは果して如何なるもので有りましたらうか。」
「比志島は十圓紙幣さつであつたと申立てゝ居ります。現に彼の懷中かくしには一枚入つて居ました。それから尚ほ一つの御不審は大したことでございません。即ち比志島は此地方が暗くはなく、時々參つた事實ことが有るのでございます。阿片は多分東京からふて參つたものでございませう。合鍵は既に目的を達した以上不明の個所へ投擲なげすてたに違ひございません。馬は何れ此邊の何處かに隱してあるものと認定致します。」
「襟卷については何う言ふて居りますか。」
「自分の物で、同夜どうや紛失致した物であると申して居ります。が、こゝに一つ彼が廐から銀月を引出したものと思はれる新事實が擧がりました。」
「ほオ、なんでせう。」
と、博士は耳をそばだてる。
「犯罪の當夜ですな、即ち月曜日の一群ひとむれの乞食が兇行のあつた場所から七八丁離れた處に野宿をした形跡を發見致したのです。翌日乞食共は立去りましたが、今果して比志島と乞食共と何等かの默契もくけいが有つたとしましたらば、彼が銀月を彼等の方へ引張つてゆく途中で奧花と遭遇でつくわしたので、その格鬪中乞食共が馬を何處いづくへか引去つたといふことは有り得べき事ではないでございませうですか。」
「そりや確に有り得べき事でせう。」
「ですから此邊一二里の間と申すものは、隅から隅まで乞食共を搜索させ、なほ各所にございまする、廐をも探偵致させました。」
「近所にも廐があるとか聞いて居ましたナ。」
ございます。のみならず、それが非常に大切な要素だらうと思ひます。松戸で銀月に續く名馬は厚川氏の所有する「野嵐のあらし」と申します。野嵐の關係者が銀月がきずつくか紛失なくなるかすれば、好いと念じて居るのは自然でございませう。そこで此野嵐の飼はれて居る泉原の廐を監督致してりますのは、小谷をたに才吉さいきちと申す調馬師で、奧花とは謂はゞ商賣敵しやうばいがたきですが、併し探偵させたところに依りますと、小谷は今度の事件とは何の關係もない樣でございます。」
「比志島とその泉原の廐との關係はどうですか。」
「何もございません。」


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