名馬の犯罪
三津木春影
2…怪しき曲者の出沒…………影も形もなくなつた…………
中澤助手は腰掛に背中を凭せて聽耳を欹てると、博士は膝頭に肘をついて俯向き加減になり、要點へ來るたびに右手の痩せた長い人差指の頭で左の掌の中央を突きながら、諄々として左の如き驚くべき怪事件の筋道を話し出した。
「まづ銀月といふ馬は南部産で、今年五歳ぢやが、骨格といひ、肉附といひ、毛並といひ、悉くの駿馬での、知つての通り松戸の競馬場へ出ては毎時一等の月桂冠を占むる大評判の馬なんぢや。だから持主の畑野男爵に取つては名譽の愛馬で、また澤山の賭金が得られる所から金の實る木も同然ぢや。競馬狂ともいふべき男爵は、銀月と他に三頭、都合四頭の馬のために、松戸の別莊からまた距つた千駄堀といふ處にわざわざ完全な廐を構へての、今度殺された調馬師の奧花隆次に監督させ、其下に三人の若い馬飼をおいて萬端の世話をさせて居つた。馬飼等は何れも善良な者共で、夜は一人づゝ交代に廐の番をし、他の二人は隣の小舍で寢たが、奧花だけは多年勤勉に正直に事へた廉で[#「事へた廉で」は底本では「事へた簾で」]、男爵もこれには給料も多く拂ひ、特別に廐から一二丁距れた處へ小さな家を建てゝ、そこへ住まはせたさうぢや。彼は女房持ちであつたが子供がなく、下女と僅た三人暮し、まことに淋しい。一體此邊は野や森だけで、その間を乞食共が徘徊して居る有樣、たゞ西の方十丁ばかりの處に少し村家がある。それから野を距てた丘の裾の泉原といふ處に厚川といふて矢張り東京の豪商で、松戸の競馬會社の重役をして居る人が廐を建てゝ居る。この泉原の廐には小谷[#ルビの「こたに」はママ]才吉とかいふ調馬師が住んで居るさうぢや。……まづ事件の起つた夜の大體の形勢はさういふ有樣であつたのぢや。
さて彌々火曜日、即ち一昨日の晩のことであるが、其日の夕方は奧花初め、馬飼共は毎時の通り馬を練らしたり、水を飼ふたりして、廐の掃除などが漸く濟んだのが夜の九時。で、廐には錠をかけて、馬馴の中二人は奧花の家へ飯喰ひに行き、當番の濱一といふ若者が一人で殘つて居た。そこへ九時少し過ぐる頃夕飯を運んで行つたのが奧花の處の下女のお勝といふ者であつたさうぢや。夕飯といふても其晩は遲くて面倒だつたものぢやから、ライスカレーを拵へて持つて行つたさうぢや。尤も當番の者が飮むのは禁じてあるから酒は持つて行かなんだが下女はこの闇の夜の恐さに提灯は下げて居つたと見える。そこで此お勝が廐から十間ばかり手前の所まで行くと、不意に闇の中から一人の男が、モシ/\女中さんと呼ぶのぢや。吃驚して立ち止まるとの、やがて提灯の黄い光に照らし出されたのは、年配三十格好の人物、鼠色の洋服に西洋脚絆を着け、瘤のある太い洋杖を突いた紳士風の男ぢやが、顏色がひどく蒼白めて、不思議に焦々した神經ツぽい態度をして居る。そして訊ねるやう
「一體こゝは何處なのかね。あゝ、既のことに野宿の憂目を見るところだつた。お前さんの提灯はほんとに地獄で佛だ。」
「こゝは千駄堀ともうしましてね、畑野男爵樣の御廐のあるところで厶いますよ。」
と答へると、其男は滿足さうに
「あゝ、然うか、成程ね! 僥倖、々々! あの廐には毎晩馬飼が一人づゝ當番して居るんでせう。お前さんが持つて居るのはお夕飯だと見える。そこでと、お前さんは新しい衣物が欲しくはないかえ。」と突然にそんな事を言つて、チヨツキの懷中から何やら紙に疊んだものを取出しながら、「見て御出で、今夜の當番の先生なぞもこれを受納りさへすりや、明日から隨分贅澤が出來るといふものさ」と言ふ。
餘りどうもその態度が眞劔なので、お勝は急に恐しくなつて、遽にゾツと不氣味になつたから、逸足出して其男の傍を通り拔け、廐の宿直部屋の窓の前まで驅けつけたのぢや。食物はいつでもその窓から差入れる癖になつてゐたが、見ると濱一といふ若者は待ち兼ねて、窓を明けて闇を眺めてゐる所であつた。で、今そこでこれ/\だと話しかけてゐると、怪の男がもう窓の前へ來て立つてゐる。そして部屋の中を覗きながら
「今晩は。」などと挨拶して「君に少しお話したいことが有る。」
といふのぢや。其時に男の握つた掌の端から白い紙包みの隅が確かに微見えて居たと女中は言ふて居るさうぢや。
「何の御用ですか。」
と濱一が訊くと、
「いや、少し君に儲けさせる話さ。噂に聞けば今度の競馬には、この廐から銀月と東雲との二疋が出るさうだね。君、少しばかりだが我輩の心附けを受取つてくれ給へ。………それでね。我輩はその二疋について少し聞きたいことが有つて來たんだ。」
それを聞くと馬飼は赫として
「やア、手前は矢張り競馬場の客引だな。そんな甘口に乘る此方等ぢやねえぞ。愚圖々々してると犬を嗾し掛けるぞ!」
と直ぐ宿直部屋を飛出して、廐の端の方の猛犬を繋いである處へ驅けて行つた。競馬場の客引といふのは君も知つて居らうが、こんな風に豫め馬の樣子を探つておいて巧みに客に賭けをさせて自分が莫大の口錢を貰ふ奴等なのぢや。
さア斯うなると女中のお勝は益々氣味が惡くなつて、ライスカレーの皿を投げるやうに置いて主家の方へ戻りかけたわい。其戻りがけに振返つて見ると、件の男は窓の中へ體を乘入れて居つたさうぢや。所で、それから物の二分とは經たぬ中に、濱一が猛犬を引連れて躍り出て見ると、奇怪にも最早その男が居らぬ。廐の周圍を隈なく探索しても影も形も失せて居つたのぢや………。」
「一寸、先生、一寸お待ち下さい………。」
默つて聽いて居た中澤醫學士は不意にかう口を挾んだ。