紳士か乞食か
THE ADVENTURE OF THE MAN WITH THE TWISTED LIP
コナンドイル A. Conan Doyle
手塚雄訳
(三一)だが、君は一體何故遙々爰まで來たのか?宇代町に居つても出來る仕事ぢあないか?」
本田「そりや君、爰に種々取調事があるんだ、倉河夫人は僕等のために二室分取つて置いて呉れたから君安心し給へ、大丈夫彼女は君をも歡迎するよ、君は僕の友人同僚だもの、僕はね實は未だ幸助の身の上を知らぬ中に彼女に會ふのは可厭だがね、ほら來た、爰だ‥‥ほら」
俺等は宏大な別莊の正面で馬車をとめたその家は街に接して居ないで廣い庭園内に嚴めしく[#「嚴めしく」は底本では「嚴めく」]立つて居た、馬丁が飛び出てゝ來て馬の手綱を制へたから馬車から飛び下り本田に跟いて行く園路は礫砂で敷きき詰めてあつて蜿蜒曲がつて居る、舘に近づくと戸がバツトと展くその中に小作りの色白な婦人が立つて居る、縮緬の着物に頸と腕に※[#「橘のつくり+毛」、U+6C04、30-9]の紅い裝飾を着けて居る、後方[#ルビの「うしろ」は底本では「ししろ」]から燈火を浴びて居るので姿が瞭然と見える片手は戸に凭れ他の手は少し擡げて物聞かまほしき樣子、躯幹を少しく前方に屈げ顏を突き出し※[#「目+爭」、第3水準1-88-85]とした目に開いた口、渾身すでに疑團である、
(三二)「大丈夫ですか?大丈夫ですか?」と彼女は※[#「口+斗」、U+544C、31-2]んだすると俺等二人居るのを見て「よくまあ」と嬉し相な※[#「口+斗」、U+544C、31-3]聲を發したが本田が頭を振り肩をしやくつて良くでもないといふ風を見せたので直に唸り聲になつて
「吉くないですか?」
「吉くありません、ちつとも」
「凶いですか」
「凶くもないんです」
「おや有難い、まあ、御這入なさいまし長い御旅行で御疲で御座いませう」
「是れが私の友人、和津君です度々御世話になつた方で今日も幸い一緒に參つて盡力して貰ふ事になつたんです」
「良、御入來ました、」と彼女は愛嬌充滿俺の手を握り緊め「何卒不行屆の所は御勘辨願ひます急に恁麼始末になつたものですから何角御察し願ひます」
「奧さん、まあ飛んだ事仰在いませ、私はこれでも昔は野營をやつたものです、左なくとも、其麼に御心配は御無用です只私は貴方になり、本田になり役に立ちさへすれば結構です」
(三三)俺等は眩いばかり燈のついて居る食堂に案内された其所には冷えた夕飯が整へてあつた、
「さあ、本田宗六樣」と彼女は本田に向ひ「少し御質ねしたい事がありますがね、眞相の所を御聽かせ下さいまし」
「はい承知しました」
「何卒御遠慮なさらないで下さい、私はヒステリー性でも何でもないもう極氣丈夫の方ですから極々もう本當の飾り氣のない御意見を伺いたいんですが」
「何の事に就いてですか」
「御隱蔽の無い所で拙夫が存命だと御思ひですか」
本田は此質問には少々手古摺つた樣子で椅子に凭ると彼女は立ち上り凝と本田を見下して
「さあ眞實の所を」
「眞實の所で左樣は思へないですよ奧さん」
「ぢあ、死んだと御思ひですかね?」
「はい」
「殺されたんですか?」
「明確とは申されませんが先づ」
「何日殺されたんですか?」
(三四)「月曜に」
「では、まあ、如何いふ譯ですか、本田樣實は本日拙夫から手紙が來たんですが」
と聞いた本田、電氣を掛けられたかの如く椅子からグイと立ち上り
「何ですか?」と怒鳴聲で※[#「口+斗」、U+544C、34-7]んだ
「はい、今日」と彼女は一枚の小さい紙片を差し上げて微笑しながら立つて居る
「何卒拜見致したいんですが」
「はい」
本田は早く見たいが一杯で其紙片を彼女の手からひツたくる樣に取りテーブルの上に展げて洋燈を引き寄せ、熟見る俺は椅子から立ち上り彼の背後から夫れを眺める、状袋は極めて粗末なもので消印は墓無局ので丁度今日の日附だ――いや既遠に十二時過ぎたから昨日の日附だといふべきだろう
(三五)「隨分亂暴な書方ですね」と本田は呟きながら「されば貴夫の書では御座いませんね、奧さん」
「はい、左樣ぢあ御座いませんけれども内の手紙は宅の書です」
「で是れを書いた人は誰だか知りませんが確か宿所を知らないで往つて訊ねたですね」
「何故ですか」
「そりあ貴方、名前の所は獨りで乾いて眞黒になつて居るぢやあありませんか、他の所は淡黒い色ですから吸取紙を用ゐたんですな、若し名前の所まで一息に書いて後に吸取紙を用ゐたとすれば眞黒の所が無い筈です、此人が名前を書いて宿所を書くまで少し停めて居たんですから宿所をよく知つて居なかつたに違いないですな、これは無論些細な事ですが此些細な事が大切なんです、では手紙は、ハア、成程封入品があるわい」
(三六)「はい、指輪です、宅の印輪です」
「是は慥かに貴夫の書ですか?」
「はい左樣書く事もあります」
「事もあるとは?」
「急ぐ時は左樣書きます、宅の平生の書には餘り似て居ませんけれども矢張宅の書です、妾確と知つて居ます」
「では文句はツと『拜啓、努め御心配なさるまじく候、萬事好都合に相成るべく候小生に關し凡ならぬ誤解有之候へ共是れ遠からず判然致すべく候御安心被下たく候‥‥幸助より』と鉛筆で書籍の飛頁で八折紙で透紋が無いふーん今日墓無局投凾で拇指の穢ない人が入れたな、はあ封筒口が護謨で接けてあるな、煙草を噛む人だな奧さん慥かに貴夫の書ですか?」
「はい左樣で御座ります」
「それで今日墓無局投凾と、ねえ奧さん、判明つて參りましたよ、然しまだ大丈夫とは申されません」
(三七)「然し宅は存命の筈ですがね、本田樣」
「はい、此手紙が僞物でさいなければ御存命の譯ですが、ともかく、此指輪では何にも明りませんよ、貴夫から盜んだのかも知れませんよ」
(指輪と手紙と同時に話題となり問答混亂す)
「いーえ、こりあ、貴方本當に宅の書ですよ」
「成程、では月曜日に書いて置いて今日投凾たのかも知れませんね」
「はい、左樣かも知れませんね」
「それでは書いてから出すまでの間に種々の事があつたかも知れませんね」
「おゝ張合の惡い事仰在つて下さる勿、本田樣、宅は屹と無恙で居ますよ、私共夫婦の間柄は誠に睦じいんですから[#「睦じいんですから」は底本では「睦しいんですから」]宅の災難は何事も妾に知れる筈です、過日出懸けた日にも宅が寢室で髯を剃る時誤つて傷を仕ましたが何の知せもないのに妾何か凶事があるに違ないと思ひまして食堂から直に二階へ飛んで參つた位ですもの恁麼一寸した事が知れて死生が知れない道理がありませうか」
(三八)それは一應御道理です御婦人方の御意見は我々推理家風情の到底及ぶ所でない位な事は私も承知して居ります、で此手紙がですがな、貴方の御意見の證據になるでしやうが若し御宅が御存命で手紙が書ける位なら何故こんなに長時歸らないんでしやう」
「如何も解りません、迚も考ひ付きません」
「では月曜日に出懸る時は何か云ひ置いて行きましたか?」
「否」
「では須藤町で見つた時、吃驚なさいましたか?」
「はい大變吃驚しました」
「窓が開いて居ましたか?」
「はい」
「そんなら貴方に聲をかけるが至當ですね」
「左樣ですね」
「只何だから取り止りの無い事を※[#「口+斗」、U+544C、40-1]んだ由ですが左樣ですか」
「然」
「助けて呉れいといふ意味に御解釋でしたか?」
「はい、手を振りました」
「然し先方で驚いて※[#「口+斗」、U+544C、40-5]んだのかも知れませんね、不意に貴方が見えたので覺えず手を振り上げたのかも知れませんね」
「左樣だかも知れませんね」
「で後へ引張られたんだとお思ひでしたか」
「はい、急に引去つたものですから」
「自分で飛び去つたのかも知れませんね室内には他に誰も見えませんでしたから」
「はい左樣ですね、然しあの恐い顏の人が居つたと申して居ました、而してあの與太郎が階梯の下に居ました」
「成程、貴方御覽の處では貴夫は平常服で在られた由ですね」
「はい然し襟も襟飾も御座いませんでしたから首が瞭々と見えました」
「以前須藤町の事を何とか申した事がありましたか?[#「ありましたか?」は底本では「ありましか?」]」
「否一度もありません」
「奧さん、色々伺ひまして何とも有難う御座います、只今伺つた事が判つて誠に結構です、では少し夕飯を頂戴致して就褥ませう、明日は大部忙はしいですから」
(四〇)俺等に當てがわれた室は廣く心地良く寢台が二つ備へてあつた、俺は既夜の旅行で草臥れたから急がしく寢へ這込んだが本田宗六は却々左樣でない、胸中に未決の問題がある時は數日間も否一週間も不斷に休まず夫れを熟考し事實の前後を考へ直したり総點から之を察して夫れを充分に解決するか、乃至は探偵の材料が未だ不十分だと知る迄は決して止まないが慣、今夜も矢張徹夜の覺悟らしい上衣と脊心とを脱いでだぶ/\な化粧服に着更へ室中を歩いて寐床の枕や長椅子、安樂椅子などの座蒲團を掻集めて褥椅の樣ふとのを作ひ其上に胡坐を掻き、煙草一オンスとマツチ一箱とを前に置いて居る