(六)意味の分らぬ電報
「ヤ、こりや驚いた、君は最う何も
彼も知つて居るんだね、宜しい、夫れなら僕も打明けてお話しして
了はう、保科君、僕は誓つて云ふが、僕が楠子孃に捧げて居る樣な
※[#「執/れんが」、U+24360、24-2]烈なる愛は、恐らく此の廣い世界でも、
他の男女の間には恐らくあるまい。僕は君が見た通り極めて無骨な青年だ。けれども
疚しい心は持つて
居らん。處で孃の心の純潔な事は
恰で雪だ。
所詮僕の如き野人との交際に堪
んのだ。だから僕の經歴上の話なんぞ色々聞きに來たが、
頓と僕に向つて口を
開かうと仕ない。けれども孃は
慥に僕を愛して居た。不思議さね、婦人として極めて純潔な行いの内に、僕に對する愛は確かに閃いて居た。夫れから數年經つて、僕は九州に往つて少し
斗り財産を作つたから、何は
扨置き、兎も角も一日も早く孃に邂逅して、
聊かでも孃を慰め
得ると思て遣つて來た。勿論僕は孃が
未だ結婚前である事は
能く知つて居た。夫で
漸と京都で孃に
出喰したから、色々と言ひ寄つて見たが、
何故か孃は
頗る
冷膽になつて居た。けれども其の意志は
不相變強いものだつた。夫れで二度目に僕が訪問した時には、
最早孃は町を出發して居なかつた。僕は直ぐ其の跡を
趁つて名古屋に急いだが、其の
後孃の召使が
此所に居ると聞いたから、
態々遣つて來た樣な次第なんだ。何しろ僕は
恁んな一
徹な無骨だものだから、
先刻も渡邊君に不意に話し掛けられると、直ぐ自分を忘れて
了つてね、
併し
其樣な事は要するに
何うでも
宜いとして、何か君、楠子孃の身の上に起つたのぢや無いかね。
御願だ、教へて呉れんか」、
「夫れだよ、夫れだから
今ま
行衛を探して居るんだ、全体君は東京の住居は
何所?」
「山の手ホテルと聞けば直ぐ解る」
「
其所でと、君は是れから東京に歸つて、場合に依つたら僕に助力して呉れんか、僕は何も嘘を云つて、
私慾の爲なんぞに君をダシに使はうと云ふんぢや無い
。只何事も
河野楠子孃の安全を計りたいばかりに努力して居るんだ。安心し給へ、今の所は是れ以外に何も話す事は出來ないのだ。僕は此の名刺を遣つて置くから、
何時も僕と連絡を取つて呉れ給へ、……………夫から渡邊君、僕は是れから出掛けるから、「アス七ジハンユク、ナニブンジンリヨク、タノム」と云ふ電報を橋本の奧さまに打つて置かうぢや無いか」…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………
僕等が靜岡の宿に着いた時、其所へ一通の電報が届いて居た。保科君は如何にも得意氣に夫を讀んで僕の面前に投げ出した。見ると電文は何の事か解らない。
「キレルカ、サケルカ、シテイル」
唯だこれ丈で、發信地は名古屋だ。僕は妙な顏をして尋ねた。
「なんだい?是れは!」
「夫が一切を語るんだよ、僕は
何時か孃の
侶伴になつた紳士の左の耳に
就て、妙な
戯談の樣な質問を發した事があつた。君は
未だ覺
ているかね、
其時君は返事を仕なかつたさ」
「いや
彼の時はもう名古屋を去つて仕舞つたから、返事の仕樣がなかつたんだ」
「フーム、
左樣か、其時だよ、僕は
保命樓旅舘の支配人に向けて、君と共に二通の同文電報を打つたのだ。その返事が是れさ」
「成程、そして何の事なんだい」
「渡邊君、しつかり遣つて呉れよ、僕等は是れから驚く可き機敏な危險な怪物を相手としなければならぬのだよ。
北國から來た教授だと云つて、文學士
志賀と名乘る奴は、以前朝鮮から
追拂はれた、大膽不敵な惡黨
堀松雄に相違ないんだ。彼が常用の
猾手段は、其の教育上の知識を巧みに利用して、可憐なる婦人を巧みに誘拐するのだ。
妻と云ふ女は東北生れの
布羅佐トミと云ふ
彼の助手なんだ。
何うも
遣口を見ると確かに其の怪物と
同一
人らしい。いや同一人ならぬ迄も、
尠くも肉体上同一の特質を持つて居る。それでね、
彼の男は以前横濱の居酒屋で喧嘩をして、其時酷く耳を
撲られた事があるんだ。之が何よりも有力な
證據ぢや無いか、可憐なる孃は何も知らないで、
巧く怪物の掌中に握られて居るんだ。渡邊君!孃は
最う殺されて
居りませんかね、
若し生きて居るとすれば、
必と土船夫人や、他の友人へ一切通信の出來ない樣に監禁されて居るんだ。
仍で僕は
先づ二問題に
逢着した。それは第一に怪物の一行は孃を
拉して東京に
往きませんか、第二に東京を通り過ぎはせんかと云ふのだ。
元來我邦の戸籍法は頗る嚴重だから、
况んや滿州歸りの前科者が、巧く警察の目を盜んで仕事をすると云ふ事は、決して容易な事では無い。して見ると第一の問題は先づ問題を爲さんね。と云つて又東京を通り過ぎて仕舞つては、婦人を監禁して仕事をすると云ふ場所が
一寸無い。すると
自ら第二の問題も無効さね。だから僕は孃は確かに東京に居るぜ。何うも僕には
左う思はれて仕方が無い。
然し今の所では果たして孃が
何所に居るか
突止めやうにも一寸手段が無いんだ。だから先づ
致方が無い。暫く堪
て時期を待つんだね。今晩僕は一寸出て警察の友人に會つて來る
積りだ。又何か面白い
手掛が無いとも限らんからね」
然し警察の手は勿論、小さい
乍ら頗る巧妙な保科君の活動からも、秘密を解決するに足る樣な何らの情報も得られなかつた。兎も角も幾百萬と云はるゝ東京の住民の中から、目指す三人を探し出さうと云ふのだから、
恰で雲を
攫む樣な話だ。影も形も見
ぬ。今まで隨分心當りの限り
照會したが、
凡て失敗だつた。折々は又た非常線まで張つて見たが、何の
得る所もなかつた。
所謂志賀なるものが出入しさうな、各方面の巣窟に色々探りを入れて見たが、
盡く無益であつた。
恁うして苦心懊惱の
裡に一週間ばかりは過ぎて
了つた。すると突然意外なる希望の光が目前に閃いたと。云ふのは
外でも無い、例の古代
歐羅巴の黄金に
金剛石を
彫めた腕輪が、所もあらうに東京日本橋の眞中なる
某質店に
入質された。
質入主は
何でも大きな僧侶風の男で、
腮鬚を奇麗に剃つた男だつた
相である。姓名や住所は勿論
出鱈目であつたが、惜しい事に例の耳には誰も注意した者が無かつた。
然れども
擧止萬端の樣子から思ひ合せると、夫は確かに志賀である。例の
※[#「夾+頁」、第3水準1-93-90]鬚の先生は其後そのご
靜岡から三度斗り上京したが、其の三度目に上京した時が、
恰度此の有力な情報の
握まれた時であつた。彼は如何にも心配氣に、
「君!何か
爲る事でもあつたら、
何卒遠慮なくね」
と云ふさへ悲しげな
態であつた。それで
今ま
漸と保科君は
憐れな
※[#「夾+頁」、第3水準1-93-90]鬚先生を喜ばし得たのだ。
「奴め、
遂々寶石を
質入したよ、最う
〆めたもんだ、見給へ遠からず
捉へてお目に掛けるから」
「けれども、何うでせう、
恁んな事から思ひ合はせると、最う楠子孃の身には、恐る可き危害が加へられた
後では無いでせうか」
※[#「夾+頁」、第3水準1-93-90]鬚は最う
泣聲を出して居る。保科君は至極眞面目さうに
頭を振つた、
「イヤ、奴等が今迄孃を監禁して居た所を見ると、奴等
自ら破滅せん限りは決して孃を自由にする事は無いと思ふね、だから僕等は何でも孃の身の上に、最後の
毒手が
下らん樣に備へる必要があるんだ」
「ぢや君
何うしたら
宜いんだい」
「惡黨等は君の顏を見知つて居るかね」
「イヽエ、何うして知るもんですか」
「
此後だね、奴等は
或は
他の質屋へ
行くかも知れん、其時は又た其時で
相當の
手當は有るけれども…………
併しまあ
大分調子は
好くなつて來たんだぜ、幸ひ金錢の爲で
未だ例の質屋では、
些とも疑つて
居らん樣だから、或は
圖々しく
彼の店へ又た現れないとも限らん、夫で今度は君の仕事だが、
恁うして呉れないか、僕から早速質屋の方へ話をして置くから、君は一つ其店へ張り込んで居て呉れ給へ、萬一奴が來たら直ぐ其の
路を
尾けて
在所あを
突留めるのさ、併し輕率な事を仕て呉れては困るよ、何事に依らず僕に相談なしで遣られちや實際困るよ、これは僕が特に君を見込んでお
願するんだ」
夫れから二日の間、
※[#「夾+頁」、第3水準1-93-90]鬚の先生たる黒部君(今だから白状するが、此の黒部君と云ふのは、例の日露戰爭の當時に、
北伐軍團長として雷鳴を
轟した黒部大將の令息なのだ)から何等の情報も無かつた。すると三日目の夕方、先生
何うしたのか
狽しく僕等の
室へ飛込んで來た。顏色は最う
眞蒼!頑丈な四肢は餘りの興奮にブル/\と
慄て居た。
「來た、來た、いよ/\奴が來たよ」
と
※[#「口+斗」、U+544C、32-8]んだ切り、餘りの事に
感極つて、
何うも落付かぬ。保科君は色々と
慰[#ルビの「なぐさ」は底本では「なぐ」]めて先づ安樂椅子を進め、それから
徐ろに口を開いて、
「さ、落付いて事件の
内要を話し給へ」
「なあに一時間
斗り前に來たよ、と云つて自身ぢや無い例の
何とか云ふ女房だ。けれども持つて來た寶石は決して女房のぢや無い。
其女は
何でも
丈の高い、色の嫌に生白い、
恰で
鼬の樣な目をした奴だつたよ」
「夫れは君、女房ぢや無いんだ」
保科君は
何も
彼も知つて居ると云ふ
態、
「其女が店を出ると、僕は直ぐ
其後を
尾けた。すると女は何も知らずに京橋新富町の方の
河岸へ出て、妙な
家は
這入つた
[#「這入つた」は底本では「這入いた」]。それが君、
葬具屋ぢや無いか」
「フーム、夫れから…………」
保科君は一
膝乘り出した。
烈しい力は
峻嚴な語調に溢れて居る。
「其女はね君、帳場の
背後に居た女に何か話して居たから、僕も續いて入り込んで
了つた」
「遲いぢや無いか、
未だ出來ないの」
と云ふ
聲丈は聞
たが、後が聞取れない。
すると店の女は何だか大層
謝つて居たよ、
「誠に
何うも
申譯ありません、
後程直に持つて
參ります、
普通のより少し大きいのに致して置きました」
これは店の女の答へだ。夫れから
兩女は
俄に話を
止めて、僕の方を振り向いたからね、僕はテレ隱しに
出任の事を
一寸尋ねて
飛出して
了つた」
「ホウ、夫れは
上手だつたね、夫れから
何うしたい」
「間も無く其女が店を出たから、僕は戸の
側に隱れて樣子を
窺つて居た。
其時女が一寸
四邊を見廻して居た所を見ると、何か僕に
就て
疑を起して居たらしいね、すると女は人力車を呼んで乘込んだから、僕も直ぐ人力車で追掛けたんだ。人力の着いたのは
芝區愛宕下町三十六番地先さ、
仍で僕は
態と
其家の前を通り過ぎて、向ひ側の角で人力を下りると、直ぐ其家を探して見た」
「誰か外に居た樣子かね
「低い土間の窓が一つ明るかつた
丈けで、
他の雨戸も
窓戸も内は
眞暗だつた。
况に障子が締め切つてあるものだから、中の樣子は
少とも見えない。夫れから是は
困つた、何うしたものだらうとブラ/\して居ると、
恰度其時二人の男が乘つた何だか妙な
[#「何だか妙な」は底本では「何だが妙な」]覆のある荷物を
玄關に運び込む樣子だから、僕も必死になつて見て居ると、何うだい、
夫は
棺だぜ、
而も大きな
寢棺だ」
「
何ツ、棺?」
「僕は場合に
依つたら飛込む決心をして居た。すると間もなく戸が
開いて男と棺とは家の内へ運込まれて
了つた。開けたのは何でも女らしかつた。其女は
暗中に僕が立つて居たのを見付けたのだらう、慌てゝ戸を閉めて了つた。夫れから僕は君との約束もあつたから、夫れ以上の深入りは見合せて歸つて來たんだ」
「ヤツどいうも御苦勞、
有難かつた」
と保科君は紙の片面へ何か
走書をし
乍ら、
「警察の
認可證が無くちや法律上
何うする事も出來ない、君は一ツ是れから此の
書付を持つて、
其筋の認可證を取つて
呉れないか、一寸難しいかも知れんが、單に寶石の
賣買と云ふ
事丈けでも充分理由になるからね、」
「けれども君、孃は
最う
直き殺されるんぢや無いだらうか、
其棺は一体
何だらう、孃を入れるんぢやあるまいね」
「黒部君、
先あ出來る限り
遣付けるんだ。
恁うなつたら一分間でも爭はねばならん、一寸でも油斷したら取返しが付かん事になる」
程なく黒部君が席を蹴立てゝ立つと、保科君は今度は僕に向つて、
「渡邊君、正規の
手續を踏んで活動するのは黒部君一人で
澤山だ。
仍で僕等は例に
依て
危道を踏んで、僕等
獨特の活動をせにやならん、所でだ、何うも
何分機會が切迫して居るから、
此際少し
大膽かも知れんが、思ひ切つた非常手段を取るの
外は無いと思ふ、是から直ぐ愛宕下町の魔窟に突進しやうぢや無いか」
「
宜し
往かう」
恁うして僕等の自働車が今しも議事堂の前を通り過ぎて、琴平町通りへ眞一文字に
※[#「馬+區」、37-3]付けた時、保科君は急に振向いて、
「
一寸君、僕等の作戰
計畫を立て直さう、思ふに
惡漢連は最初、忠實な召使を孃の
側から離して置いて、巧みに孃を東京へ誘ひ込んだのだ。夫れで孃の出す手紙は
皆んな途中で
惡黨共が取り上げて
了ひ
乍ら、
豫め準備して居た
家に連れ込んだものらしい。それで初めの間は孃を一
室へ押込めて置いて、先づ其の目的物たる寶玉類を奪ひ取つたんだね、そして
片端から
賣り
初めたんだ。無論こうすれば大丈夫と思つたからの事さ、
眞似これが孃の生命と關係があると云つて、非常な注意をして居る者があるとは知らう筈が無いからね、所で孃を殺さずに放り出せば、孃は無論彼等を
訴へ出る。だから惡黨共は決して孃を許さないと。云つて
何時迄も一
室に押込めて置く事も出來ない
[#「置く事も出來ない」は底本では「置く事も出出ない」]、
是に
於てか唯一の解決法が直ぐ浮んで來る、
所詮殺すんだね」
「さうとも、
夫りや最う解り切つて居る」
「一寸待ち給へ、
一つ他の推理法を
取て見やう、渡邊君!君は
假りに
或事に
就て二つの
考を持つた時だね、直ぐ
最も
眞に近いと思ふ一の交叉点を發見するだらう、夫れで
此際僕らは、孃と云ふ方面でなく、單に
棺と云ふ側から一歩を進めたら
何うなるだらう、議論は
先あ
後の事として、棺と云ふ一の事實から見ると、孃は
疑もなく最う殺されて居ると推論することが出來る。僕は
夫が何よりも恐いんだ。然し又た棺が準備されてある所から見ると、
醫士の死亡診斷書と、
其筋の認可證を得て、正式に葬式をするものらしい、所で孃が
慥かに殺されたとすれば、
必と裏庭あたりへ
密と埋めて仕舞ふ
位は遣り
兼ねないのだが、棺まで用意された所を見ると、奴等は何でも正々堂々と葬式を遣る氣なんだ。サア
恁うなると何うだ、確かに彼らは或る手段で孃を殺し、夫を病死した樣に醫士を
僞いたんだ。要するに毒殺したんだ」
「さうだね、夫れとも診斷書を僞造しやせんかね」
「イヤ
夫は
危い、奴等は
夫んな
莫伽な事はすまい。兎も角棺は
[#「兎も角棺は」は底本では「免も角棺は」]確かに葬儀屋のだ。現に僕等は
其家の前を通つて來た。……渡邊君、君は是れから一寸葬儀屋へ往つて呉れんか、そして愛宕下町三十六番地の葬式は明朝
何時に始まるかを聞くんだ。さうしたら幾らか眞相が解るだらう。」
* * * * * *
僕は直ぐに葬具屋へ
※[#「馬+區」、37-3]付けて聞くと、帳場の女らしいのが、葬式は明朝九時だと無造作に答えた。僕は直ぐ其の報告を齎した。
「夫で解つた、最う疑ふ餘地は無い何かの方法で充分法律上の
手續は
濟したものに相違ない。だから奴等は最う何が來ても安全だと思つて居るんだ。さあ
恁うなると
何んでも直接敵の不意に
乘じて奇襲を行ふの
外は無い。君は何か武器を持つて居るかね」
「ステツキ一本だ」
「
宜し/\、
夫で大丈夫だ。敵も無論萬一の準備
位は
仕て居るからね、僕等は最う法律とか警官なんて事を顧慮する場合ぢや無い。何でも
短刀直入棺に
[#「短刀直入棺に」は底本ママ]向つて突進するんだ」
夫れから僕等は間もなく
愛宕下町三十六番地の大きな暗い家の玄關に立つて、
聲高く案内を乞ふた。すると直ぐに戸が開いて
背の高い女が薄暗い中から現れた。
眞闇がりの中に僕等二人が立つて居るのを見ると、聲も鋭く、
「をや、
貴下方は、何の御用ですの」
と尋ねて怪しい眼を光らす。保科君は
落付き
拂つて、
「志賀君に
一寸御目に掛りたいのですが」
「そんな人は居ませんよ」
荒々しく
言捨てゝ戸を閉め
樣とした。保科君は直ぐ足で戸を
押へて
了つた。
「居ない?夫れなら名前なんか何でも
宜い、兎も角
此家に居る男の人に逢ひ
度いのだ」
とキツパリ小氣味よく云ひ放つた。女は
一寸躊躇したが、
態々笑顏を作つて、
「さ、
何卒御入り下さい、主人は決して人を避ける樣な
迂散な者では有りません」
恁う云つて僕等を
玄關側の客間に通した。
「只今主人がお目に掛ります」
と云ひ殘して女は
立去つて
了つた。僕等は暫く虫の喰つた汚ない室内を見廻して居ると、やがて坊主頭の
腮鬚を青く剃り立てた大きな男が現れた。赤ら顏で
兩※[#「夾+頁」、第3水準1-93-90]が豐かに垂れ下がつて居る所は、如何にも慈悲に富んだ分限者らしいが、物凄い
双眼と唇の
邊には明かに殘忍の
相が現れて居る。彼は強いて言葉を
和げ、平和を
裝つて、
「貴下方は何か
御間違ひになつたんぢやありませんか、
何うも
見當違ひらしい、三十六番地は廣いですよ」
と輕く微笑する。保科君は沈んだ力ある聲で、
「ま、
夫も
宜いでせうが、不幸にして
夫んな無駄な時間がないのです。
貴下は
仙臺から
御出でになつた波多野君でせう、滿州と京都では
慥か志賀と
仰有つたのだつたが…………僕は
保科鯱男です。
何所へ
往つても同じ事…………」
流石に
眞面に
浴せられてギヨツとした。默つて僕等の方を睨み付けて居たが、やがて
冷かな語調で、
「保科君とやら!君の名が何と云はうが
私は
少つとも
驚かん、
凡そ人間と云ふものは、心に邪念さへ無ければ怖るゝ物はない筈です。全体君等は
何の御用で來られたのかね」
「
外でもない、君が京都から連れて來られた河野楠子孃に御目に掛りたいのです、孃を
何うなすつたか、
夫が聞きたいのです」
「あゝ
彼の女ですか、實は
私も其の女の住所が知りたいのだ。私も途中で
大分立替へて百
金足らず
貸金が有るんだが、其の
擔保に商人も呆れて
價を付けぬ樣な二つの
僞飾り玉を置いて往つたんだ。初めね、其の女は京都で(
一寸仔細あつて
其頃は別の名を
用ゐて居たが)
私等夫婦に取り
入つて私等が東京へ歸るまで勝手に附き
纒つてね、
私も
己を得んから切符から
何から
皆な立替
たんだ。所が東京へ着くと直ぐ姿を隱しちやつた。君、解るんなら其の女の居所を搜して
呉れませんか、私も
御願だ」
「僕は孃を見付けに來たんだ、見付かる迄
此家を
片端から搜索するから、
左う思ひ給へ」
「フム、
認可證は御持ちだらうね」
保科君は待つてましたと云はん
斗り、突然ポケツトから
短銃を出して、
「夫れが來るまでは
此奴が物を云ふ迄さ」
「何ツ?ぢや貴樣等は普通の盜賊なんだな」
「賊なら賊でも
宜い。
此の
又た
伴れの一人と來たら、僕の輪を掛けた惡漢だぜ、サア二人で
家屋搜索に取り掛らうぢや無いか」
云ひ
了ると其の男は忽ち
背後の戸を開けて、
「コラツ!松子、松子、巡査を呼べ!直ぐ!大急ぎだ!」
と
絶※[#「口+斗」、U+544C、44-8]した。忽ち廊下に女のけたたましい足音が聞
た。保科君は飽く
迄落付いて、
「渡邊君、時間に制限があるからね」
と云つて
一寸語を
轉じ、
「サア、波多野!なまじ
止め
立てをすると
爲めにならんぞツ、
此家に運び込んだ
棺は何所にあるツ」
「棺ツ?
夫が
何うした、
入用があるから買つた迄だ。中には死骸が入つて居る」
「其の死骸を
見度いのだ」
「死骸を見たい?馬鹿を云へ、
不可、
私が許さぬ以上斷じて見る事は
不可」
「
宜しい、夫れなら腕づくで見る迄だ」
と云ひ放つや否や、保科君は
突嗟に主人を
突徐けて、矢の如く奧に
躍り込んだ。すると
恰も直ぐ前に、半分
斗り戸を開けた
室がある。
其所は
食堂で、机を並べて蝋燭を
點し、棺が置いてある。保科君が
矢庭に
葢を取つて見ると、其の内には
大分衰弱した婦人の
屍体が
横つて居た。如何に殘忍な手段で殺したとしても、病氣にしても、此れが
彼の
艷麗花の如き楠子孃を是れ
迄變形させる事は出來ない。保科君も僕もアツと驚いた。保科君は小さい聲で、
「アツ
有難い、有難いぞツ、全く別人だ!」
「
何うだ、間違ひだらう」
と後から
尾いて來た男は
冷かに言ふ。保科君が、聲を
焦つて聞けば聞くほど彼は落付き拂つた。
「全体此の婦人は誰かね」
「君が是非知り
度いと云ふのなら話してやらぬものでも無い。其の女は
茂庭とみと云つて、
妻の
※[#「女+保」、U+5AAC、46-6]母なんだ。夫れが計らず横濱の慈善病院に居るのを見付けたから、
此處へ引取つて
芝區田村町十三番地に居る笹川
醫師に掛けたんだ。
而して色々手を
盡したが遂に駄目、診斷書に
依ると老衰としか無いが、
若し
他に
病因があるなら
夫は君の想像に
推せやう、夫で葬式一切は新富町
河岸の
大平葬具店に
托したので、
愈々明朝九時には埋める筈だ。保科君とやら、君も間違つて
佛を
辱めたんだから、線香の一本位上げて遣り給へ、君が確かに楠子孃と思ひ込んで、葢を開けて
狽てた時の光景は全く
寫眞にでも撮つて置きたかつたよ」
斯く迄嘲弄されても保科君の態度は一
糸紊れず、兩の手を堅く握り締めると、言葉鋭く又もや切り出した。
「イヤ
最小し家宅搜索をやらにやならん」
「なにツ
未だ遣る?
夫りや
不可」
と主人が
※[#「口+斗」、U+544C、47-5]んで飛掛らうとした瞬間、頓狂な女の聲と、重い靴の
音とが直ぐ
傍の廊下に聞
た。
「さあ
巡査さん、
何うぞ御願ひです、此の人々が
家へ
無理々々押込んで來て、無法な事を云つて動かないのです。
御願ですから
摘み出して下さい」
一人の部長と
巡査の顏が戸口に現れたので、保科君は直ぐ名刺を
名して、
「
是が僕の姓名と住所です。
又是れは僕の友人で渡邊と云ふので」
「オウ!君ですか、君なら
私は
能く知つて居る、
然れども君、認可證も持たずに來ては困るね」
「勿論
不可のです。夫は
萬々承知して居ます」
「
捕縛つて下さい!」
突然に横から主人が
絶※[#「口+斗」、U+544C、48-3]した。部長は言葉
嚴重に、
「何も
指示には及ばん。縛る必要があれば
何時でも縛る。けれども保科君、兎も角
出給へ」
「さうですか、渡邊君、ぢや出やう」
やがて僕等は再び
往來に出た。保科君は例の如く
冷かに
落付き
拂つて居たが、
私は憤怒と屈辱に
尠からず激して居た。部長は僕等の
背後から
尾いて來た。
「殘念だつたらうね、保科君!
然し規則だから
止を得ん」
「全くだね部長君、實際規則なんだから…………」
「君等が出張するには無論重大な理由が
伏在して居ると思ふが、全体
何うしたんです」
「イヤ、部長!一貴婦人が失踪したんだ。で僕は
彼の
家に
確に居ると睨んだのだ。だから是から直ぐ認可證の
下附を願ふと思ふ」
「
左うか、夫れなら君、
私らの方で
此家は當分見張りして置いて上げやう、何か
異状があつたら直ぐ知らせて上げる」
此時は
未だ九時頃であつた。直ぐ僕等は波多野と云ふ新しい事實の調査に着手した。第一に横濱慈惠病院に自働車を
飛した。色々尋ねて見ると、
果して
數日前或る慈善家夫婦が此の病院に來て、
此前の
召使だつたと云ふて一人の老衰した婦人を引取つたのは確かに事實だつた。從つて其の後、此の老婦人が死んだと云つても、病院では別に驚きもしなかつた。
第二に醫士を呼出して調べた。矢張り醫士も其の婦人を老衰死に至つたものと診斷して、確かに死亡診斷書を書いたと云ふ。
「
私は決して
疑はしい者ではありません、又其の婦人の死因に
就ても一
點疑はしい點の無かつた事は私が斷言します。」
恁う云つて醫士は念を押した。夫れから醫士の見る處では、波多野家に
於て
何等疑はしい點は
見當らなかつた。
唯だ
相應な
金持らしい
家なのにも
拘らず、一人の召使も
居らぬのが、變と云へば變だつたと云つた。最う是れ以上に醫士を調べる必要は無い。
最後に警察へ
往つた。
併し認可證下附の
手續が中々面倒で、
頃刻と云ふ
間には合ひ
相もない。署長の
奧印を貰ふ迄には
尠くも五六時間は
經るらしい。併し出來る
丈の運動はして見た。
恁うして此の一夜は最早終ろうとする頃、例の巡査部長が
計らず一情報を
齎[#ルビの「もたら」は底本では「もた」]した。夫はあの大きな家の窓から
室まで
届く
煌々と電燈が灯されたが、
而も一人として
出入する者が無いと云ふ事であつた。併し
先づ何事も
明日まで我慢する事にした。
保科君は何となく落付かぬ
態で、物も言ひ出さねば、勿論眠らうとも仕ない。僕は遠慮して先へ眠る事にしたが、彼は葉卷を
啣へ
其太い
憂ありげな眉を一文字に寄せ、長い神經質の五
指は、椅子の
腕木にしつかりと付けて、今や大秘密の幕を切つて
落さんと、必死になつて
肝膽を
碎いて居た。
恁うして
夜中數時間
只だ家の
圍りを歩いて居た。
其夜も
遂々明け放れて翌朝呼び起こされると、突然保科君は僕の
室に飛び込んで來た。
寢衣の
儘で、蒼ざめた顏に目が落ち
窪んで居る所を見ると、昨夜一睡もしなかつたらしい。
「葬式は君、
何時だつたね、八時ぢや無かつたかい!」
と言ひさして、猶も語調鋭く、
「今……アツ七時二十分だ。渡邊君、
占めたぞ、有難い!有難い!神から受けた我輩の
頭腦が何を
捻り出したか……有難い、……早く、早く、大急ぎだ!………死か
生か、一歩千里の誤りとは
此事だ。遲れたら最う取返しが付かんのだよ……」
全で狂氣の如く僕を
急き
立てゝ、ものゝ五分と經《た》たぬ内に、僕等の自働車は愛宕下町を目指して風を切つた。漸《やつ》と目的の家に着いた時は最う八時を少し廻つたが、幸い
他の人々も少し遲れて
集つた。
出棺時刻から十分
斗り過ぎて居たが、
柩輿は
尚ほ戸口に
止まつて、今しも出發する
斗りの所であつた。
恰も
其所へ僕等の自働車は、是非とも棺を止めやうと眞一文字に乘り付けたのだ。すると三人の屈強な男が玄關から現れて、自働車を必死に
抑へた。
時既に遲し、保科君は葬列を
遮て
飛鳥の如く突進した。
「戻せ!戻せ!戻さんかツ!」
保科君は先頭に立つ男の胸に手を
當てゝ
怒聲鋭く
浴せ掛けた、
此時例の波多野は怒りの形相凄まじく、滿面朱を
注いで、
爛々たる眼光に棺の方を睨み、
「
何の不都合があると云ふんだ。認可證を見せろ、
馬鹿奴ツ」
保科君は沈着な聲で、
「認可證は今直ぐ來る、夫れ迄は此の棺を一歩たりとも出す事は成らんぞツ」
餘りの峻巖さに
柩輿に取り附いて居た
白丁連は只だ恐れ
入つて、言ひ合せた如く歩みを止めて
了つた。そして
凡て保科君の名に從つた。波多野は
事非なりと見たのであらう、飛鳥の如く身を
飜して家の内に姿を隱して了つた。
斯うして棺が再び玄關へ戻されると、保科君は言葉
忙しく、
「早く!渡邊君、君は何を
仕て居るんだ。早く!早く!!此の
釘拔で!エヽ
葢を開けるんだ!夫れから君は是れで………
皆んな頼むぞツ、
確りやつてくれ」
僕は
白丁等と協力して漸く棺は覆ひを取つた。すると何とも云へぬ強烈な
魔醉劑の
臭ひがプーンと鼻を
衝く、棺の内には、其の頭部を殘らず
魔醉劑液に
浸した綿で卷かれ、
誰れとも知れぬ一人の死体が
横つて居た、保科君が息をはづませ
乍ら直ぐ其の綿を取り除くと、中から現れたのは、
未だ生き/\とした中年の美人、
宛ら大理石像の如く横つて居る。保科君は直ぐ其の腕を
執つて、
「あゝ最う
萬事休すかツ!渡邊君、どうだ最う呼吸が無いかな、イヤ
未だ大丈夫だ、脈がある、脈が…………」
一時コロロホルムの
毒瓦斯と窒息の爲めに、最早回復不可能と見
たが、夫れから必死に人工呼吸やら注射やら、最新醫術の
有ゆる手段を
盡した結果、花の如き楠子孃は
漸く
呼吸を吹き返した。
恰も
此時一
臺の自働車が
砂煙を
捲いて家の前に止つた。保科君は
夫と見て、
「オウ!!認可證を持つて來たな」
と
悦しさうに
※[#「口+斗」、U+544C、54-8]んだが、忽ち車上から降り立つた人を見て、
「
此所だ!此處だ!早かつたね、黒部君!僕等よりも君こそ孃を看護する
當の權利者なんだツ……あゝ危ない所だつたよ、一
歩遲れたら最後、楠子孃は無慘な
生埋にされるところだつたのだ」
* * * * * *
其晩保科君は僕に對して
恁んな事を
謂つた。
「イヤ君、僕が是れはと睨んだ手懸りや、觀察や、嫌疑が
餘り無造作に狂ふから、僕も
徹宵考へ込んだよ、すると
夜が白々と明け放れる頃、突然一
道の
光明が僕の
腦中に
閃いた。夫は
外でも無い、黒部君が報告した葬具屋の女の言葉だ。ね、覺
て居るだらう「
後程すぐ持つて參ります。
普通よりズツト大きくしました」と云つたね。
夫だ。
夫れは
明かに棺に
就て言つたんだ。實際
普通のより
餘程大きかつた。其の特別に大きな容積に作られたと云ふ所に、
聊か意味があるんだ」
「何です、夫れは」
「サア、何んだらうね」
「僕は當時其の大きな深い棺の底に、小さな衰弱した老婦人の
死屍があつたのを目撃した。サア
何故に
彼んな小さな婦人の爲めに、特別に大きな棺を
用ゐたのだらう、云ふ迄もない、
他の
屍体をも一つ入れる
餘地を作る爲めだ。
所詮一の
證明書で二つの
死屍を葬らうと云ふのだ。僕の眼の玉が黒い限り、此の觀察は斷じて
誤らん、夫れで朝八時に葬式が出ると云ふから、何でも僕等は其の棺が家を出る迄に止めて
了はなければならん、孃を助ける
機會は
頗る
大膽だつたが、結果は御覽の如く、
彼れ以外に機會は無かつたのだ。僕は初めから
左う思つた、奴等は決して孃を慘殺は
仕ない、手荒な抵抗を受けて慘殺するのは、彼らが
飽く
迄も避け樣としつゝあつた所だ。夫で一切の嫌疑を
跡に殘さぬ爲め、之を葬つて
了う事にした。君は孃が永い間押し込められた恐ろしい二階の座敷牢を見たらう、奴等は
彼室へ飛込んで、コロロホルムで孃を麻痺させて下へ運び、再び
覺醒せぬ
樣充分棺の内へ藥液を
浸して、更に
葢を
釘付けにしたのだ。……あゝ
若し
彼時を
逸したら、
彼の
惡黨の後半生には、恐らく一層
慘酷な事件が
繰返された事であらう」(了)