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 ホシナ大探偵
 押川春波
 

   (一)贅澤ぜいたくな浴場

「ハヽア、京都だナ」
 疾風はやかぜのホシナ[#底本では字下げなし]と呼ばれた保科ほしな大探偵だいたんていは、んと思つたか凝乎じつと僕の長靴ながくつ見詰みつめて居たが、唐突だしぬけ此樣このやうな質問を發した。恰度ちやうどその時、僕は安樂椅子にり掛かつて、ダラリとあしを投げ出して居たのだが、大探偵は一心に僕の長靴ながぐつを見詰めて居るので、れはテツキリ長靴の問題だなと思ひ、少し首をもたげて、
串戲じやうだんぢやないよ、之れでも舶來はくらいだぜ、巴里ぱりーで仕込んで來たのだよ」
と、僕がいさゝかムツとしてう答へると、保科大探偵はにはかに微笑を唇邊くちびるへんたた※(「#変体仮名え」)なが
「イヤ君の事だよ、京都の上方浴かみがたゆだらうと言ふんだ、君は何故なにゆゑいなせな江戸名物の錢湯に入らずに、贅澤な、ハイカラな上方浴なんぞへくのだと聞くのだよ」
「あゝうか、れはね…………僕はの二三日なんだか脚氣かつけの氣味ですこぶる閉口して居るんだ。所が或人あるひとに聞くと、上方湯かみがたゆは大層鹽分えんぶんを含んで居て、脚氣にいと云ふものだからね、物は試しと入つて見た迄さ」
「所でだね、保科君…………」
 僕はなほことばつゞけた。
「君は僕の長靴を見てぐ上方浴だと斷定した樣だが、なにかい、長靴と上方浴と何か關係でもあると言ふのかね」
 と反問した。「ハヽア渡邊君」と保科君は聊か戲談じやうだん半分の口調で、
「推論と云ふものは大抵間違はんものだよ、僕はそれを説明する順序として、もつとも一つ質問を發して見やう。君は今朝こんてうれかと相乘あひのり自働車じどうしやとばしたね、どうした、是れが同じ推理で説明しるんだ」
 僕は直ぐ反對した。聊か語氣も荒々しく、
んな君、全然ことなつた問題で説明する事は出來んよ」
 と云ふと、保科君は言下げんかに「夫れだ、夫れだ」と膝を叩いて連呼しながら、
「渡邊君、君の反對は理窟としては申分まをしぶんがないがね、僕の説明する所を靜かに聞き給へ、づ自働車の方から初めやうか、見給へ君の上衣うはぎの袖と肩には大變に泥のハネがあがつて居るね、所でだ、君がし自働車の眞中まんなかに居たとすれば、全く泥撥はねが上つて居ないか[#「居ないか」は底本では「居ないが」]例令たとへ居たにしても、左右が同樣に上つて居る筈ぢや無いかして見ると君は自働車の左側に乘つて居たと云ふ事はたしかだ、同樣に君はたれ同伴つれと相乘りを遣つて居たと云ふ話論わろんが出るだらう、理屈と云ふものは先づうしたものさ」。
それはさうさ、しかと長靴の關係は別だぜ」
おんなじ事さ、君の長靴の紐の結び方は何時いつでも習慣で一定して居る。所がま見ると今日けふ大分だいぶちがふ、第一にハイカラだ、君の柄になく蝶結びか何かに成つて居る。して見ると君は何所どこかで[#「何所かで」は底本では「何所で」]一度長靴を脱いだに相違ない。さらば穿く時に誰が其の紐を結んだか、是が大切な所なんだ、それたしかに靴屋かなくば上方浴の給仕ボーイだ。しかれども君の靴は新品あらなのだから靴屋の手にかかる筈は無い。さあ愈々いよいよ靴屋で無いとすると、誰だらうね、言ふ迄もない上方湯の給仕ぼーいぢや無いか、んな事はうでもいとして、君がそもそ思出おもひだした樣に上方浴へ入つたについては、其所そこたゞならぬ仔細しさいがあると、僕はにらんだがうだい」
「フーム、其の理由とは…………」
「君は半ば好奇心で入つた迄だと言ふだらうがね、其所だよ贅澤な上方浴へ入つてさ、特別浴槽ゆぶねまで買ひ込んで、大盡風だいじんかぜを吹かしたのはいが、うだ名古屋に何か野心でもあつたのだらう」
「なんだつて、よい…………」
 保科君は安樂椅子あんらくいしに腰掛け乍ら、衣嚢ぽけつとから小形こがたの手帳を出して又しやべり出す。
およそ世の中に、是と云ふ親しい友達も無くて、年中其所此所そここゝうきくさの樣に流れ歩いて居る婦人位ふじんぐらゐ危險な者は無いよ。と云つて何も婦人れ自身が有害だと云ふのでは無いがね、うも他の人々を罪惡におとしいれる誘惑物になりたがるんだ。の女の生涯がまるうきくささ、力と頼む者が一人だつて有るぢや無し、夫れで居て年中旅から旅へ移り歩くのには充分な財産は持つて居る。所で彼女かれあやふい事は時々消失せるのでね、なんの事はない廣野ひろのに迷ふ雛鷄ひなどりの樣な者さ。く狐にさらはれるが不思議なことに能く助かる。だから僕は此際このさい河野かうの楠子くすこぢやうの身の上に何か危險な事がおこつて居るのぢや無いかと思ふんだ」
 話が大分だいぶ混雜こみいつて來て、僕の方面の事などは、何となく除外されそうだ、保科君の話はだ續く、
「楠子孃は君も知つてるだらうが、有名なる河野伯かうのはくの直系で、伯が唯一人たゞひとり遺孤わすれがたみなんだ。世裝しよたい財産は男系だんけいの人が相續したが、夫れでも[#「夫れでも」は底本では「夫れとも」]孃には莫大な財産と、古代西洋の銀地ぎんぢ金剛石だいやもんどちりばめた立派な頸飾くびかざりとを殘された、是れが實にたいした珍品で孃も必ず自身で携帶して居る。所で孃は妙に人をまよはする樣な表情を持つて居る美人だ。歳だつて今が盛りだし、立派な貴婦人なのだが、夫れがうしたのか二十年の前生涯を夢の樣にすごして、最後に唯だ一人、頼る所もなく殘されてしまつたのだ」
「ぢや、何かい、孃の身の上に何か變事でも起つたと云ふのかい。…………全體ぜんたいは孃は何うなつたと云ふんだ。生きてるのか、夫れとも死んでるのか、※(「#変体仮名え」)、君」
「ま、ま、さういちや困る、其所が問題なんだよ、孃は一つの美しい習慣があつた。と云ふのはほかでも無いが、例の丹波たんば退隱たいゐんして居る老知事の奧樣だね、土船どぶね未亡人さ、彼の人の所へ隔週に一度きつと優しい通信を寄せて居たものでね、――僕は即ち未亡人からたのまれた譯だが――所が此の數週間と云ふものつとも通信が來ないんだ。最後の手紙は京都の東山ホテルから來て居るが、何だつて其の旅舘を出る時誰にも斷りなしに出てしまつたらしい。親戚は大心配おほしんぱいさ、どれも此れも財産家揃いの事だから、金はいくらでも出す。どうかして孃の行衞ゆくゑを突き留めてれと、うなんだ」
「通信をするのは土船未亡人の所だけかい。未だほかにも有る樣だぜ」
「無論有るさ、確かにある、銀行が夫れだ、銀行の通帳かよひちやうを見ると孃は確かに生存して居る。取引して居るのは白邊しろべ銀行だが、彼所あすこには預金して居る。僕は直ぐ駈付かけつけて孃の勘定書を見たがね、夫れにるとなんでも最後の小切手は京都振出ふりだしと手形だ。金高きんだか大方おほかたすくなくない所を見ると、孃は現在その金を持つて居るらしい。所が此後このごだ一枚小切手が出て居る」
「夫れは何所どこのだ。誰にてたの…………」
「宛名は瓜生うりふ桃子もゝこだが、振出地ふりだしちが書入れて無いのでるでわからん。所で其の小切手は今から三週間ばかり前に、名古屋の那須なす銀行で現金と引替へられて居る、金高は五百圓だ。
「瓜生?なんです其の瓜生桃子と云ふのは…………」
「夫れも解つたよ、瓜生桃子と云ふのは孃の召使のをんなで。所で孃が何故なにゆゑ此の婢に小切手を拂つたかと云ふのが解らない、しかれどもだね、それし君が調べて呉れたら直ぐ解るだらうと思ふ」
「僕?僕が調べるんだつて…………」
「兎に角探偵の第一着手ちやくしゆとして、先づ名古屋へ出張する必要があるがね、所が生憎と目下もくか僕のおやぢが危篤なんだ。夫れでうしても東京を離れる事が出來ない又探偵の原則から云つても僕は當分うごかん方が上策なんだ。警察の方も僕がらんと、一寸ちよつと心細いし、うつかり刑事連けいじれんにでも嗅ぎ付けられて表沙汰にでもなられると餘り面白くない。其所で君に是非つて貰ひたいんだ。僕だつて無論盡力じんりよくはするがね。先づ何なりと君の電報を待つた上の事にやうぢや無いか」


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