博士臨終の奇探偵
三津木春影
七、何といふ慘酷な宣告……偖は彼大惡人よな!
病人の焦々した呼吸づかひは聞くも傷ましい。博士は喘ぎ/″\
「み、水を下され!」
「貴君はやがて臨終だ。が、貴君ともう少し話をせぬうちは死んで貰うては困る。かうして望み通り水を取つてあげるのもそのためですぞ。ソラ、零しなさるなよ! さう/\拙者の言ふことがお解りかな。」
博士は唸きながら
「貴君の出來るだけの力を盡して下され……過ぎ去つたことは過ぎ去つたことぢや……私は何事も忘れませうから、何卒私をば治して下され、治して下され。」
吁、何ぞその哀願の慘憺たるや!
「忘れるというて、何を忘れなさるのだ。」
「貴君の甥の死因をぢや……今の貴君の言葉から察しても、あれは貴君の所爲であつたらしい……が、それも忘れてしまひませう。」
「其樣なことは忘れやうと、覺えて居らうと貴君の勝手だ。貴君はもう死ぬるのだから、まさかに裁判所の被告席で貴君に逢ふ機もあるまい。甥の死因を知りなさらうが知りなさるまいが、今の拙者に關係したことではない。貴君と今話して居るのは彼のことではなくて、貴君自身のことであるのだ。」
「左樣……左樣…………」
「拙者を迎へに來た人の――何といふ名前であつたか忘れてしまうたが――其人の言ふところでは、貴君は横濱の波戸場から病氣を背負つて來られたさうだね。」
「どうもそれ意外には原因が見え出せぬ。」
「呉田さん、貴君は日頃頭腦が御自慢だらう。自分ながら才智萬能のものと己惚れて居るに違ひない。ところが今度こそ貴君よりもう少し上手なものに出會したのだ。まア靜に考へて見るがよい。發病の原因について何か他に思ひ當る事はないかね。」
「いや私には考へられぬ。私はもう無我夢中ぢや。どうぞ一生の御願ひだから助けて下されい!」
「ようがす、助けませう。但しその助けるのは貴君の記憶を呼起す助けをするだけですぞ。つまりどうして病氣を背負つたか、どのやうな運命になりゆくものか、貴君の眼を瞑す前にそれを知らせればよいのだ。」
「何かこの苦痛を減らすものを下され。」
「苦しいかね。苦しいだらうな。多分痙攣を起すのだらうな。」
「左樣……左樣……ひどい痙攣…………」
「ウン、まア辛棒して拙者の言ふ事を聽きなさい。よいかね、聽きなさいよ! 貴君は病氣の始まる直ぐ前頃に何か特別に變つた事が無かつたかどうか思ひ出せないか。」
「いや……いや……別段何も…………」
「よく考へて見なさい。」
「私はもう考へる力も何もない。」
「ウン、では拙者が思ひ出させてやらう。何か郵便で屆いたものは無かつたかな。」
「ゆ、郵便で…………」
「函が一個來なかつたらうか。」
「あゝ、私は死にさうぢや――私は死ぬる、死ぬる!」
「コレ、確りして聽きなさい!」
どうやら榛澤が病人を暴つぽく搖り動かして居るらしい。中澤醫學士の胸は益々騷いで來た。次第に變る客の態度と暴言に、躍り出したくて足がムヅ/\するのだが、博士の嚴命は此處ぞとばかりぢつと辛棒するその忌々しさ!
「拙者の言ふ事を是非とも貴君は聽かねばならぬ。貴君は函を覺えて居なさるか――象牙の函を。それは先日の水曜日に屆いた筈だ。貴君はそれを開けて見たらう――どうだ、覺えてゐなさるか。
「左樣……左樣……私が開けて見た……すると内に鋭い彈機があつて……多分、何か惡戯で――」
「なに惡戯であるものか。貴君も隨分馬鹿だな。貴君がそれを欲しがつたから送つたのだ。一體誰が貴君に願つて拙者の邪魔をさせやうとしたか。貴君自身の醉狂であらう。拙者のする事を見逃してさへ置けば拙者とても貴君に仇をする道理はないのだ。」
「想ひ出した……あの彈機!……あれがチクリと私の手を刺して血を出した……その函ですか――テイブルの上にあるその函。」
「さう/\、正に其函だよ!ところでポケツトへ斯う返して貰ひませう。かう取り上げて了へば、折角の最後の證據ももう煙滅といふわけだからね。併し呉田さん、初めて合點が行きなさつたらう、貴君を殺すものは斯くいふ拙者であるのだ。貴君は拙者の甥の死因を餘りに能く知り過ぎた、だから同じ運命をとらせたのだ。もう間もなくお陀佛だらう。拙者はこゝにゐて臨終まで見屆けて參らうかな。」
咄、何といふ慘酷なる言葉、何といふ無慈悲なる宣告であらう! 偖ては彼いよいよ正當なる移民會社々長に非ずして、世にも兇猛なる惡人であつたのか! さるにても、博士が彼を招いた眞意は如何ぞや……
博士の聲は次第々々に沈みゆきて、果ては聽き取りがたきほどの呟きとなる。
「この瓦斯はどうしたのかね。」と言ふのは榛澤。「急に暗くなつたぢやないか。いや、かう暗くては折角貴君の臨終のお顏が拜めぬわい、ドレもう少し明くしてあげやう。」
と、枕頭を放れて歩き出したのであらう。やがてパツと明くされた蒼白い瓦斯の光が、カーテン越しに中澤助手の眼を射る。
「まだ何か御手傳ひをすることがあるだらうかね。」
「卷煙草とマツチを貰ひたい。」
助手は殆ど驚喜の叫聲を擧げんとした。何となれば、今博士の發した言葉は、瀕死の病人の衰弱した聲ではない。多少低い感じこそすれ、平生の力ある確乎したる音調である。瞬間の驚く可きこの激變――助手は又もやカーテンから顏を出さうとした。