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 博士臨終の奇探偵
 三津木春影
 

   四、譫妄せんまう容體ようだい益々險惡……訪問はうもん警部の奇なる表情

 實を言ふと、中澤助手が醫者を呼び迎へやうとするねつ[#「執/れんが」、U+24360、209-2]は多少弱くなつた。博士は氣の毒にも明らかに精神錯亂に陷つてゐる。それを殘して出掛けるのは何とも心許こゝろもとないのだ。さりながら今博士が迎へて來いといふのは何者であらう。あれほど頑固に醫者を呼ぶのを拒んでゐたくせに…………
榛澤はんざはてつ一と申すのですか。私は初めて聞く名ですな。」
「多分は初めてゞ有らう……か、意外なことには、此病氣の療法に一番熟達してゐる者が、專門の醫者ではなうて、たゞの素人であるといふことぢや……そ、その榛澤鐵一といふのは移民會社の社長でね……ス、スマトラに行つて活動してゐるが、只今は東京に歸つてる……何故此病氣のつうになつたかと言ふのに、スマトラに此病氣が非常に流行する……然るに適當の醫者がない……で、必要上彼自身がその療法を研究するやうになつたのぢや……彼は時間に綿密な男であるで、六時前に訪問しても君が會はれぬことを私は承知してる……き、君を引留めたのはそれからぢや……もう六時だから行つてくれ給へ……そ、そして私がこの病氣に罹つたことを話して、是非とも引張つて來てくれるならば、私も萬一なほらぬとも限らぬと思ふ…………」
 博士の言葉は此文字通り巧く繋がつてゐるのではない。絶時しつきりなしの呼吸の促迫そくはくやら、苦しげな兩手のもがき方やらで、途切れ途切れにさまたげられて、眞に血を吐くやうな物言ひ振りであるのだ。加ふるに其容體は、助手が來てからの二三時間のうちにも險惡を加へ來り、消耗性の斑點は益々紅味あかみを帶び、まなこは黒き眼窩がんくわの底にいよ/\しく輝き、冷汗は額にしつとりと滲み出てゐる。
「く、詳しく私の病状をば榛澤に告げてくれ……私の臨終に近い、無我夢中のこの容體をね……ほんとに私は解らんよ……牡蠣かきといふものは隨分増えるものだらう……それだのに、海の底がなぜ一パイに堅い牡蠣のとこになつてしまはぬだらう……ほんとに奇體だ!腦髓が腦髓を支配するとはこれ如何いかに!……あゝ、中澤君、私は何を言ふて居つたかね。」
 愈々いよ/\言ふことが變である。
「榛澤といふ人を迎へて來いと仰有つてゐたのです。」
「あゝ、さう/\、さうだつけ……私の生死は彼の手に握られてある……是非共引張つて來てくれ……實はね、中澤君、彼の甥が先達せんたつて無慙むざん死方しにかたをしたことがある……それについて私は彼をあやしんだことがある……だから感情が面白うないかも知れぬ……私に怨恨うらみを構へてゐるかも知れぬ……だが、何とかをがみ倒して、哀願して連れて來て貰ひたい……そしたら私も救はれやう……私の命を取留めるのは彼あるのみぢや!」
「では自働車で連れて來ませう。」
「い、いや、さうしてはならぬ……榛澤が來ることを承諾したらば、君だけは一あし先きに歸るのぢや……何とか口實を設けて一しよにならぬやうに……な、中澤君、いかね、それを忘れてはならぬよ……君は甞てまだ失敗しくじつたことがないから安心であるが……此世の中には、動物の播殖はんしよくさまたげる天然のかたきがあるからね……な、中澤君、君も私も天職を盡した……それだのに、世の中に牡蠣ばかりがはびこることになるのかね……いや、いや恐いことだ!……恐いことだ!」
 他愛もないおしやべりを後にしつゝ、助手は急いで病室を出た。博士が鍵を手渡ししたので、これ幸ひとポケツトに收めて出た。殘して行つたらば、なかからぢやうをおろして博士自身が閉ぢ籠もつてしまはぬ[#「閉ぢ籠もつて了はぬ」は底本では「閑ぢ籠もつて了はぬ」]とも限らぬ。廊下に出ると、小間使のお光が戰慄ふるへながら泣いてゐる。室内からは尚ほ博士の癇高かんだかな、薄い聲音が、狂うた調子で洩れて來る。何かしら慘憺さんたんたる思ひが助手の胸をつて、心を益々暗くさせた。
 自働車會社へ大至急の電話を掛けて、玄關口に待つてゐるうちに、夕暮のもやの中から現はれ出た一人の洋服の男があつた。
「先生の御容體は如何いかゞですか。」
 さう言ひながら上つて來る男をよく見れば、平服だから解らなかつたが、警視廳の森原もりはらといふ警部であつた。
「あゝ、貴君あなたでしたか……先生は大病にかゝりましたよ。」 
と助手が言つたが、その顏を見た警部の目付は一種異樣な表情に滿ちてゐた。見損みそくないかも知らぬか、うやらよろこばしげな滿足らしい色であつたが……まさか、そのやうな筈はあるまい。
「いや、そのお噂さで御見舞に上りましたので。」と言いつゝ、警部はズン/\上へ通つてしまふ。
 其處そこへ自働車がやつて來た。助手は首を傾げながら車上の人となつた。


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