四、眞夜中の怪しき口笛
……愈々怪事件だ!實際不可解だ!
蓮
[#「蓮」は底本では「緒」]「それも警察醫の御調べではそんな形跡は少しもないと云ふことです。」
緒方緒太郎氏は此の蓮子の返答を聞いて深く考へ込んだ。
緒「フヽン。
如何しても毒殺らしい原因といふものが
發見からないのですね。他殺らしい疑問もないとすると。それに
姉樣の
身體には
何處に一つ
創跡らしいものも見えない。フヽン。」
蓮「え、それは身體中を搜し廻りましても、コレと云つて暴行を加へられたり、又
擦り
創らしい跡一つさへも見えないので御座いますよ。」
蓮子孃は、今も猶ほ其の當時の事を思ひ出すと
奇怪に
堪えぬかのやうに、また
恐怖さに堪えぬかのやうに、
顏色蒼醒め、
身體を微かに打ち
戰かして、緒方探偵王の顏を
凝つと
瞶めてゐる。
緒方緒太郎氏も、凝つと蓮子孃の顏を見返しながら
緒「
繼父さんは、それに就て何か御考へがあるやうでしたか。」
蓮「
否、別に。唯、警察醫の云ふことを默つて聞いてゐる
許りでした。」
緒「警察醫は別として、貴女の御考へは
如何です。」
蓮「私は其時全く
怖えて
甚く神經を刺撃した爲めに、死んだものと思ひました。併しその原因は全く分りませぬ。」
緒「その乞食だの
破落漢なぞは、夜でも庭を
徘徊いて居るのですか。」
蓮「えゝ、大抵は何時でも居ります。」
緒「ハハア、それぢや姉さんが死ぬ
刹那に
仰言たといふ
斑の紐と云ふのは何の意味だか貴女に思ひ當りませぬか。」
蓮「
左樣ですね。私は姉が苦痛の爲め無意識に口走つたのかとも思ひました、又乞食共が鉢卷にする豆絞りの
手拭の事かとも思ひました。」
緒「
如何も容易ならぬ
事件のやうです。」と緒方緒太郎は絶體に蓮子の
語には同意出來ぬものゝやうに、頭を打振り、
緒「サア、それでは御話の續きを
拜聽ひませう。」
緒方緒太郎の言葉に連れて、蓮子は更に恐る可き事件の成行を次の樣に話し出した。
「それから二年も過ぎましたが、其間私は一層淋しい月日を送つて參りました。すると此頃ある親友から結婚の相談を受けまして、夫となる人は
秋田武太郎と申しまして平塚の秋田傳之助の次男で御座います、
繼父は今度も異存がありませぬので今春中に式を擧げるやうになりました。所が姉の結婚前と同じく又もや大事件が
突發りました。夫れは修繕する所があるとかで二三日前から大工が入りましたので、私も仕方なしに
※[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、34-9]が變死しました氣味の惡い
室へ入つて寢なければならぬ事になつたのです。その氣味惡さつたらありませぬ。私は姉の死んだことなぞ考へて眼も合はさずに居ります、丁度あの時と同じやうな時刻なんです。
※[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、35-2]が死ぬ前に聞いたと云ふ口笛と同じ音が聞えるぢやありませぬか。私は直ぐ
刎起て、ランプを點けて
室中を見廻しましたが鼠一匹居やしません。もう
床へなんぞ入つて
居られませんから
夜の明けるのを待兼ねて
春山樣から聞いて居りました貴下に御願ひするより外はあるまいと、逃げるやうにして參りましたので御座います。」
緒「
宜うこそ
左樣なさいました。夫から最う他に御話はありませんか。」
蓮「もう、お終いで御座います。」
緒方緒太郎は暫く
沈默つて兩手に
頤を
埋めたまゝストウブの火を
瞶めてゐた。
緒
[#「緒」は底本では「蓮」]「
愈々大事件だ。相當な手段を取るには
種々の事實を確かめなけりやならぬが、併し今は一刻も延ばす場合ぢやありません。宜しい、これから私共は御宅へ伺ひませう。そうしたら
繼父さんに知れぬ樣に
家の中の模樣を拜見出來までうかね。」
蓮「えゝ、それには丁度都合が宜いのです。
繼父は
今日は是非來なければならぬ用事があるとかで、東京へ來る筈ですから、
今日一日は邪魔になる者はありません。
老人の番人が居りますけれども少し馬鹿な方ですから……。」
緒「
結構、
結構。和田君、君も厭ぢやないだらうね。」
和
[#「和」は底本では「緒」]「
如何して厭などころか。」と私は答へた。
緒「それぢや私達二人で參ります。他に貴女は御用が御ありでせうか。」
蓮「
否。それでは直ぐ歸つて御待ち申して居りますから。」
緒「えゝ
如何か。それに少し準備して置く要事もありますから、
正午過ぎに參ります。」
須藤蓮子は早くも再び黒いベールに
面を包み、緒方氏の
語を後に殘そて、イソ/\と出て行つた。緒方氏は其姿を見送り
緒「和田君。君は此事件を
如何觀察するかね。」
和「僕の
考では天下最も不可解にして、且つ最も恐る可き兇行だね。」
緒「ウン、
左樣だ。實際不可解だ。そして大兇行だ。」
和「併し、彼女の云ふ所に間違ひなく、
床も壁も窓も入口も、總て丈夫に出來て居るとすれば、
※[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、38-5]の死は
單獨で死んだと思ふより他はないね。」
緒「それぢや、君は
眞夜半の口笛と、
※[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、38-7]の死際の不思議な語とを何と解釋するのだ。」
和「僕には
全然見當がつかぬね。」
緒「この口笛と高見澤の愛する乞食の群とを結びつけると、高見澤には此の
繼子姉妹の結婚を妨げるのが利益だと思はれるね。
蓮子孃が聞いたと云ふ
金屬の音は、窓の鐵の
閂を嵌めなほした音ぢやあるまいかね。何れにしても
此點が肝心だと思はれる。」
和「併し乞食は
如何してそんな事をしたんだらう。」
緒「そこ迄は未だ分らない。」
和「併しそんな事が出來るだらうか。疑はしいね。」
緒「僕も
左樣は思ふんだが、これから都築郡へ出懸けて、
家を一つ檢査してやらう。」
此時緒方氏は突然入口を振向いて、
緒「ヤア誰だ、
怪しからん。」と大聲に怒鳴つたので、
其方を向くと手荒く突き開けられた戸の外には、小山の樣な
巨漢がヌツと突立つて居た。