二、怪しい婦人の怪物語
……繼父は南洋から猛獸を取寄せました
「貴女は今朝
※[#「さんずい+氣」、第4水準2-79-6]車でお
出でになりましたね。」
と、突然に云はれて、婦人はひどく吃驚した
體で、思はず緒方氏の顏を
瞶め、
「では
貴下は
妾を御存知で
被居いますか。」
と
微かな震へ聲で問ひ返した。
緒「イヤ
左樣ぢや有りません、今貴女の左の手袋に挾んである
※[#「さんずい+氣」、第4水準2-79-6]車の往復切符の片端をチラと拜見して分りましたのです。」
緒方氏は平氣で答へて、更に、
「で、貴女は餘程早くお宅をお
出になりましたね、そして御宅から停車場まで、隨分ひどい
泥濘路を蓋無しのガタ馬車でお出でになつたと想はれますが。」
婦人は
茲に到つて飛立つばかりに驚き呆れ、暫くは魔法使でも見るやうに緒方氏の顏を、物をも云はずにジロ/\
凝視めてゐる。
緒方氏は
莞爾して、
「何もさうお
驚きになる事は有りません、ただ御見掛けするところ、貴女のコオトの左の袖に七箇所以上も生々しい泥の痕が附いてゐます、ソンナ風に
揆を揚げるのは田舍の街道通ひのあの蓋の無いガタ馬車より他には有りません、ツマリ貴女がその左側にばかり乘つて
居られたと云ふことが、それで
判明るのです。」
手に取るやうな説明に、婦人も初めて
首肯いて、
「まつたく貴下の
被仰る通りに相違御座いません、妾が宅を出ましたのは四時前で、東神奈川の停車場へ着きましたのは四時廿分過ぎでございました、
彼處で
直一番の列車に乘つて中央停車場に參りましたのです、そんな事はともあれ、緒方先生、どうか此
憐れな
妾をお助け下さいまし、此儘に居りますならば、
妾は氣が違つてしまひます、それに誰一人
妾の相談相手になつて呉れる者もございませぬ、もつとも
幾何か頼みになる人は一人居りますが、その人の力位では到底おの恐ろしい事件を
禦ぐ足しにはなりませぬ、途方に暮れて居ります所へ、恰度先年春山の奧さん――あの方も大變危急な場合を貴下に救つて頂いたと
承つて居りますが――から貴下のお話を伺つたのを想ひ出し、神樣の手に縋るつもりで急いで
此處まで參りました、お
住居も昨日やつと春山樣から伺つて參つたのでございます、アヽお願でございます、
何卒妾をお助け下さいまし、妾の
生命が助かりませぬまでも
何卒妾が今
陷つて居ります
暗黒の底に幾分かの
光明を見せて下さいまし、お願ひでございます。只今の處では何程の
御謝禮も差上げる事さへ出來までぬが、今一二個月の
中には妾が結婚いたす事になりますのでさうすれば
何分の財産だけは
如何樣にも取扱はれますので、
其節は少くとも志だけの御禮は必ず致します。」
緒方氏は
卓子の
抽斗から小さいノートを取出して、暫し繰り返して居たが、
「アヽ春山夫人の事件は、「猫目石の指環」の事だつた、併しこれは和田くん、君が
未だ僕を知らぬ以前の事なのだ、
夫から貴女!」
と婦人の方を向いて、
「只今の報酬云々の點に就ては、決して御心配には及びません、一體僕のする仕事が即ち僕にとつて報酬となる譯ですから、併し貴女の御都合の宜しい時に、僕が探偵に要した實費丈を
御支辨下さると云ふことならば、それは決して御辭退は致しませぬ。では貴女のその怖ろしい事件の顛末を一
伍一什伺ふことにしましやう。
何卒探偵上何かの足しに成りさうな事は少しも洩れ無くこの
兩人に御聞かせ下さい。」
婦「では申上げますが、この事件について妾が何よりも
甚く怖れて居りますことは、
如何にも、其事實が不確かでぼんやりして
居ることでございます、妾のかまで恐れまする事の
起因が實に
可笑しいほど些細な事であることでございます、そのため妾が
唯一人頼りにして
居る方でさへも、此話を申上げると、「それは
貴女の神經だ」と云つて殆ど取合つて呉れないので御座います、併し臆病な女の神經だと一口に云はれてしまふこの事が、今にどんなにか恐ろしい、身の毛が
悚つ
[#「身の毛が悚つ」は底本では「身の毛が慄つ」]事件となつて來るか、妾にはそれがマザ/\眼に見えるやうに想はれます。緒方樣、貴下は人の心の奧底まで一眼で
見徹しなさるお方と承りましたが、今この妾の身の廻りを
圍んで居りまする危險を、どうして
遁れましたら宜しいで御座いましやうか、後生でございます、御教え下さいまし。」
緒「承知しました、どんな秘密でも必ず
發いて御安心をおさせ申します。」
緒方氏は腕を
拱き、この不可思議なる婦人の、世にも恐ろしき物語を聽くべく靜かに眼を
瞑ぢた。
婦「妾は
須藤蓮子と申しまして、只今は
繼父と同居いたして居ります。繼父の名は
高見澤信武と申しまして、由緒正しい舊家で、代々神奈川縣の
都築郡に住んで居たのださうでございます。」
緒「あゝ高見澤家の
御名は僕も伺つて居ります。」
緒方氏は瞑目した儘で云ふ。婦人は言葉を續けて、
「高見澤家も昔は武藏相模切つての豪家ださうで御座いまして、土地もなか/\莫大なものだつたと申します。所が此四五代と云ふもの相續人に放蕩者ばかり生れまして、次第に身代を
消耗して殊に先代などは相場に迄手を出して見事失敗してしまい、財産は
悉皆人手に渡す、
現今では僅かばかりの
地所と百年以上になる古家屋が殘つて
居るばかり、それさへ此頃では抵當になつてゐると云ふ樣な憐れな始末で御座います。先代は恐ろしい
烈しい氣質の人で、
他人の
助もからず、貧乏に一生を送つたと云ふ事で御座いましたが、其
獨息子の當主は――つまり妾の繼父に當ります―
―何しても高見澤家を盛り返さねばならぬと云ふので、親類の
補助で醫者になり、南洋へ出稼ぎに參りました。
彼地では技術の巧いのと、
固前の
しつかりした氣質とで、隨分一
時は繁盛もし、手廣くやつて居たさうで御座いますが、或時
しげ/\と盜難に會ひ、その嫌疑を
家の下男にかけた結果、一時の怒りに任せて到頭その男を毆り殺してしまひ
[#「毆り殺してしまひ」は底本では「歐り殺してしまひ」]ヤツトのことで死刑丈けは
遁れましたものの、餘程久しい間
彼地で入獄して居りまして先頃
特赦されて日本へ歸つて參りました。それだものですから、今では
甚く氣むづかしい、絶望し切つたやうな人間になつて居ります。
妾たちの實父は
臺灣の守備隊の陸軍大佐で御座いましたが、妾達双兒が生れると間もなく
逝くなりました。母は妾達二人が
二歳になつた時に
連子をして高見澤家へ再縁いたしましたが、母は大變な財産家で收入は少くとも一ヶ年一萬圓はありました。それを
私達の結婚費用にするやうに貯蓄し、殘りは私達の食料として
繼父に手渡し、一同内地へ歸ると間もなく山北で
※[#「さんずい+氣」、第4水準2-79-6]車が衝突しました時に慘死を遂げました。それで
繼父は東京に開業して居ましたのを廢して私達二人を連れて
都築郡の古屋敷へ引つ込むと、母の遺産のお蔭で一家は何の
浪風もなく、何不足なく幸福に暮らされた筈なんです。
所が、其後間もなく
繼父は
全然別人のやうに殘酷になりまして「高見澤さんが
歸郷て來た」と心から歡迎してくれる人々とは更に交際せず、終日
家にばかり閉ぢ籠つてばかり居ましてたま/\
家外へ出るかと思へば
近隣の人と
劇しく口論するばかり、全く
狂人としきや思へませぬ。精神病は多く遺傳するとか聞きますが
繼父は
※[#「執/れんが」、U+24360、19-5]帯地方に長く居た
故で
斯なになつたのかと思はれます。村人とは
絶間なしの喧嘩口論、警察の御厄介になつた事も度々で御座います。それに非常な
大力で、一度怒つたと來たら、手のつけ樣がありませぬ。つい五六日
前にも村の鍛冶屋を
小川に
擲げ込みましたが、原因と云ふのは何でもないことなんで御座います。
斯な風で村の人からは鬼の樣に思はれ、
朋友などあらう筈もなく、
破落漢や乞食のやうな者に
庭園を貸したり、時には自分も其仲間入りをしたりするです
[#「したりするです」はママ]。」
「
加之に
繼父は猛獸が非常に好きで、二三年前ワザ/\南洋から豹だの大猿だのを取寄せまして、殊にそれを
庭園に放し飼にするものですから、
危險くつて、村の人達は父同樣
此獸をも恐がつて居ります。」
「こんなで御座いますもの緒方さん、
※[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、20-7]も
私も――双兒で私は妹分にしてありました――何の
愉快も知らず日を送りました。
雇人なぞは、ついぞ居付いたことも御座いません、
家の事は皆
※[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、20-9]と私とで致しました。
※[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、20-10]が死んだ時は三十歳
前でしたけれど髮の毛はもう
白髮が見えて居りました。」
「オヤ
一寸待つて下さい、ぢや姉さんは
御逝なりなすつたんですね。」と、眼を
瞶つてゐた緒方は訊く。
蓮「
左樣で御座います。
※[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、21-4]は二年以前に
逝くなりました。これがまた誠に不思議で御座いまして、特に聞いて戴きたいので御座います。私達二人はついぞ交際と云ふことも知らず、
唯一人實母の妹に當ります叔母が
隣村に居りますので、時々遊びに
行く位なものでした。
※[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、21-8]は二年
前降誕祭の晩に叔母の
家で或る豫備の海軍少佐と見知り
遂々婚約が
成立つやうになりました。
繼父も別段反對もなく、婚禮も一二週間の内になつた時に大變な
事件になつて
終ひました。
私の唯今の怖さもそれが
原因なので御座います。」
椅子に
凭りかゝつて默然と耳傾けて居た緒方は、此時
急[#ルビの「き」はママ]き立てるやうに、
緒「
何卒事實を出來るだけ
委しく
仰つて下さい。」