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 白髮鬼
 黒岩涙香
 

        一〇六

 余は何が爲め叫びしか、唯見る一個の大石たいせき、墓窖の天井より落來りて彼の破棺やれくわん壓潰おしつぶしたる有樣を!
 墓窖は是れ幾千百年ぜんの築造、石を以てたゝみ上げたる堅固けんごなる天井なるも孰れかにゆるみを生じ居たるならん、殊に樹折きを崖崩がけくづるゝ程の宵よりの暴風に、其弛そのゆるみたる石、天然の重さにて拔落ぬけおちし物なる可し、先程より幾度も凄じき音のせしは是等の爲なりしならんと察せらる。
 去るにても壓潰されし破棺の上には唯だ今まで彼れ那稻が腰掛け居たり、れ孰れに逃れたるや、夫とも逃れ得ずして其れと共に壓潰されしか、然り他れ全く壓潰されしなり、嗚呼誰れか人生に天罸無しと云ふか、天よ、天よ、貴方のくだす罸は、人の罸より重き事幾倍なり、強き事幾倍なり、余が日を重ね、月を重ねて經營慘憺の末に行ひたる復讐も、汝の罸に比べては物の數にも足らず、汝が無言の間に、何の用意も無く忽然と下したる責罸せきばつは、たゞ轉瞬てんしゆんにして余の復讐に一刀兩斷の決局けつきよくを附けしめたり。
 石は五尺立方もあらんかと思はるゝ程のおほきさにて而も那稻が腰掛け居し其の頂邊ちやうへんに落來りし物なれば那稻の身體したいは隱れて見えず、見えざるはかれの無慘なる死樣をおほひたる者なれど、唯だ一つ余が目にとまるは石の下より洩もれいでたる細き白き彼れの手首なり、一おしに押殺されし身體からだの痛みは洩出もれいでし其手首に集りし者か、手首だけ猶ほ戰き、五本の指に、引攣ひきつる筋の波打つを見る、嗚呼世に又と是ほどの無慘が有る可きか、是れほどの天罰が有る可きか、波打つ指は見るうちしづまりたれど、指に猶ほ婚禮の指環、ひやゝかに輝けるは、氣味良しと笑ふ天の笑顏を冩せる者か。余は恐しさに堪兼たへかねて見ざらんとするも、余の眼おのづから其の所に引附られて見ぬこと能はず、見まじとおもひながら見、くまじと思ながら其近くに寄行よりゆき、余は蝋燭を持ちしまゝ其石の周邊あたりを一廻りしてあらたむるに、一方には白き禮服の喰出はみだしたるあり。生々しき血の浸出にじみいでて、少しづゝ染行そめゆくは、彼れの罪を記しつくる者とも見る可し。余は筆持てる今に至る迄も此の氣味惡き有樣を忘るゝ能はず、殊に婚禮の指環の光れる白き手首は、爾來じらい余の眼を離れず寢るもおきるもく所に余が目にちらつき、或時は握固にぎりかためしこぶしと爲りて余をうらめしくうたんとする如くに見え、或時は余を冥途の底へ招く如くに思はれ、又或時は合せて拜む片手と爲り、其罸をしやするに似たり。總て余が心の迷ひとは知れど、余は生涯此片手におびやかさるゝならん。
 茲に至りて余も半ば狂人となりしにや、其手の所にひざまづき、余がかうべを垂れきて殆ど其手を接吻せんとしたり、手と唇とはなる事唯だ一寸ばかりなるに至りてはじめて我がまよひに氣附き、眉をひそめて飛退とびのきたり。飛退たれど猶ほ其所そこを去る能はず、おそはれし眼にて近邊を見廻すに、先程余が生返りし證據の一として那稻の膝に投打ちたる銀製の十字架、余が足許に輝くを見る、此十字架は曾て余を葬りたる其僧侶が余の死骸の胸に載せ置きたる者なり、余はせめてもと思ひ其十字架を拾ひ上げ、恐しき片手の指を一々に開かせて之を握らせ又一々にとぢさせて「サアおれが汝に盡すのは是だけが力限りだ、此上の事は出來ぬ、汝那稻、之を以て神に祈らば、己は汝の罪を赦す事は出來ぬけれど神は赦して呉れるかも知れぬ、有難いと思ふが好い」ト呟きて立上れり。
 立上ると共に、余は腦天より冷水ひやみづあびせられし如くおのづから我身の震ふを覺え、唯だ譯も無く恐しさにたへざれば、宛も物におそはれし小兒せうにの如く聲をかぎりに叫びながら、目を閉ぢて出口の方に走り行けり。行きて最下の石段につまづき、初て我に返りたる心地したれば目を開きて背後うしろを見るに、手に持つ蝋燭は既に消え、彼の大石の拔落ぬけおちし天井のあなよりして、暴風と共に洩來もれきたる冬の月影、銀の十字架を握りたる彼れの手首をてらして青し。
 嗚呼何等の無情なる光景ぞ、余は復讐の終りたる我身のうれしさも知る能はず、狂氣の如く石段を馳上はせあがり、戸を開きて外にいでしも、何と無く穴の中より恐しき記憶の余を追駈來おひかけきたる如く思はれ、外より再び錠を卸し「かうすれば復讐も那稻も、天罸も、手首も余のうらみと共に此中にうづまつて仕舞ふ、アヽ有難い」と云ひ胸をなでつゝ出來いできたれば、氷の如き夜嵐よあらしは、熱に浮されし如き余のくびを吹き、しんに此世に生れ返りたる心地して余は唯だ「愉快/\」と叫びつゝ立去りたり、知らず余が行く先は何所いづれぞ。


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