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 白髮鬼
 黒岩涙香
 

        一〇二

 余は足許にしがみ附く那稻の樣を見下みおろろすに、彼れが戴き居し帽子は落て絹糸より猶うるはしき髮の毛散亂ちりみだれて肩に掛り、外套も半ば脱去ぬげさりて其白き首より胸のあたりあらは露出むきいだしたれば、彼れのかしらより下半身しもはんしんに輝ける夜光珠だいやもんどさながら星の光に似たり、アヽ是等の夜光珠だいやもんどは余が母の遺身かたみなるも有り、余が家重代いへぢうだいつたはれるも有り、余は斯る高貴の品物を彼れの身に着置つけおくは汚はしと思ひ、容赦も無くあたまより首より胸より悉くむしり取り、唯だ余が先に與へたるの海賊の夜光珠だいやもんどのみを殘し、
「汝の樣なけがれた者に羅馬内家代々の寶物たからものつけさせて置く事は出來ぬ、唯だ笹田折葉の贈た分だけは丁度汝の身に相當する品物だ、輕目郎練かるめろねりと云ふ海賊が盜み溜た汚らはしい品だから」と云ふに那稻は余の意味を充分にさとり得ぬと見え、問返す如く顏を上げたり。
「オヽ猶だ忘れて居た約束が有る、今夜汝に笹田折葉の寶物たからものを見せるつもりで此墓窖へ連れて來たが、今は履行の時が來た、サア見ろ」と云ひながら余はの海賊ねりの隱せし棺の如き寶物箱たからものばこを開き示すに、中は是れ余がかねて最も那稻の眼を驚かせる樣、一品/\順を正して並べ置きたる物なれば、其光そのひかり燦爛きんらんとしてまばゆく、目を射るばかりに輝けるにぞ、泣悲なきかなしめる那稻も之には驚き、我知らず「是はア」と叫びつゝ立上れり。
 余は嘲笑あざわらひて「合點が行たか那稻、笹田折葉と云ふ老人の今までつかツた金錢は皆茲から出た、是は海賊輕目郎練が政府の搜索を逃れる爲め此墓窖に隱した物で、波漂が生返た時見出みいだしたのだ、今から思へば天より此復讐をとげよとて其費用の爲め波漂にたまはつたも同じ事、最う復讐は終つたから悉く汝に遣る」と言聞いひきけるに、貪慾どんよくほかに愛も無く望みも無き那稻なれば、のがるゝ道なき此間際に至りても猶ほ心を之に奪はれ、餘りの見事さに殆どたましひの消えし如く恍惚として眺めれり。
 余は猶ほ破棺やぶれくわんに腰掛けし儘、彼れの樣子を見て有るにアヽ彼れ、余がたゞにて白髮はくはつの老人となりし如く彼も亦唯一夜否唯半夜に若々しき色艶消え、全く容貌のくづれたる老女かと見紛ふほどに衰へたり、わづかに其の眼のみ異樣なる光を放てど、其外そのほかに今までの那稻と思はるゝ所少しも無し、彼れが心のくるしみも、余の苦みも劣らざりしか、余はあやしみながら見るに從ひ、忽ち我が心のうちに一種のあわれみを起し來り、みづから抑へんとすれど抑へ難し、益々見れば益々あはれにして余と云ひ那稻と云ひ、斯も不思議なる運命を負ふ者が又と此世に有る可きかと、思ふ心は涙にうるむ聲と爲り、
「コレ我妻わがつま那稻、余が最愛の妻那稻、汝は死際の今となつても唯一點悔悟の念は浮ばぬか、其身の行ひを惡いと悟り、誠に波漂にすまなんだと一ことわびを云ふ心は出ぬか、おれは汝を二人と無い女と愛し、汝の爲には死るも厭はぬ程に思ひ、本統の貞女とは汝の外に有るまいと身も許し心も許し、自分の身よりも猶大切にして居たのに汝はなんの惡魔にさそはれ己を欺く樣に成た、コレ那稻、汝若し己の爲に唯一點の涙を落し、悲いと云つたならば己は汝の罪を悉く許して遣る所で有た、假令たとひ墓窖から生返り汝が魏堂の膝に抱れて居るのを見た時でも、汝が唯一言波漂が可哀相だと云たなら己は汝への愛にめんじ其儘姿を隱して仕まひ、魏堂と汝を末永く幸福に送らせる所で有た、夫に何ぞや悲しみもせず、邪魔者を拂つたなど心地好げに笑はれてうして怒らずに居られやう、怒るのが無理かコレ、怒るのも愛の爲だ、是ほど愛しさへせねば決して此樣な復讐もせぬ所だ。」
 あたか獨言ひとりごとの如く愚痴の心を繰返すに、那稻は耳を傾けて之を聞き、恐る/\懷かしげに、余がかたに少し寄り、色のめたる唇にかすかなるゑみを浮め、昔し余が名を囁きし如き聲にて「オヽ波漂、波漂」と細語さゝやけり。
 余は此柔かなる聲を聞き何故なにゆゑにや涙の込上來こみあげきたるを覺え、みづかあはれさにへざる聲にて、
「オヽ波漂とな、波漂は既に死だ人、茲に居るのは波漂の脱殼ぬけがら、汝は其脱殼を何うする積だ、波漂は汝の爲めに愛をつひやし盡したけれど夫でも汝が一點の愛をむくはぬ爲め此通りの脱殼に成果なりはてたのだ」と猶ほ獨言の如くに言ながらも、三十に足り足らぬ血氣盛けつきさかんの一男子が早や殼脱もぬけの人と成り、愛も枯れ身もかれて無情のさかひいりしかと思へば、みづから泣ざること能はず、泣じやくりに胸塞がり後は聲さへ續かぬに、那稻は斯くと見て其身もはじめての哀れを催せしにぞ、且悲み且はぢらふ顏附にて、余を慰めんとする如く余がそばに來り、余が膝に寄り余が胸に寄り、片手を余が首にきてもた[#「馮/几」、第4水準2-3-20]れ「波漂、波漂」と云ふうちにも高く打つ彼れが胸の波きこゆ。
 彼れ猶ほ其聲を低くし「オヽ波漂、此身が惡い、あやまつた、今までの罪はゆるして、コレ波漂、先程から云た言葉も皆此身の言過ぎ、是からは心を入替へ、御身を愛し、充分の貞女と爲り、今までの罪を償ふゆゑ、何卒どうぞ許して、元の通りわらはを愛して」と訴ふる如くに詫出わびいづる。れが聲も余と同じく早や半ば涙に曇りぬ。


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