白髮鬼
黒岩涙香
九九
玉散る如きミラン製の刃の光は閃きて那稻の目の前に在り、言はずば斯よと身構へたる余が權幕の凄じきには、不敵の惡女も敵し得ずや有けん、彼れ戰きて忽ちに平伏しつ、
「許して、許して、殺すのばかりは許して下さい、命の外は何の樣な責苦でも致し方ありません、ハイ申ます、申ます、貴方は眞の波漂です、所天波漂、今が今まで死だ人と思つてゐた波漂に違ひ有ません。」
と打叫び、更に魂消る如き泣聲にて、
「貴方は先刻も私しを愛すると、仰有たでは有ませんか、何故態々私しと婚禮しました、婚禮せずとも固から貴方は私しの所天、私しは貴方の妻、アヽ恐しい恐しい二度の婚禮、オヽ分りました何も彼も合點が行きました、何と云れても仕方は無いが命ばかりは、ハイ未だ死る年頃では有ません、後生ですから最う暫く生して置て。」
と、其卑怯未練なる魂性を洒け出して余を拜むにぞ、余は初て少し滿足し、短劍を鞘に納めながら、
「オヽ愈々己が波漂だと合點が行けばナニ未だ急に殺しはせぬ、汝の如き心まで腐た女は手に掛て殺すのも汚はしい、活して置て尚だ云聞す事も有り、尚だ責る事も有る、コレ那稻、波漂は伊國の男子だけに魂が有る、一寸の恨にも仇を返さずには置かぬけれど、俗人のする樣に一思に殺して仕まひ、苦痛を其場限り忘れさせる樣なソンナ手緩い復讐は大嫌ひだ、云ふ丈の事を言聞せ、其後は此墓窖へ閉込で立去るのだ。」
「ヒヱツ!」
「無言れ、此墓窖へに閉込で置て遣るから其後で生やうと、死うと自分の勝手、夫とも己が此墓窖から逃れ出た樣に自分で逃れる道を探し、再び浮世へ出るなら出ろ、其時には相當の考へが己に有る。」
と大裁判の宣告を先づ落着きて言渡すに、彼れ餘りの懼しき其運命に驚きてか、今まで動く力も無く伏し居たる其身を忽ち跳起し、余の前に突立たり。
立は立ても心既に度を失ひて其身體に添はざる爲め蹈む足も定まらず、其儘蹌踉けて傍の壁に※[#「馮/几」、第4水準2-3-20]れ掛り、息も絶々に喘ぐのみ、余は此有樣を最と冷かに打見遣りて、
「コレ那稻、死だと思た所天波漂が此通り生返り、汝の目の前へ歸たのに、戀しかつたの一言も云はぬのか、接吻も仕度く無いか、嬉く無いか、波漂に分れた悲さは今以て忘られぬと幾度も笹田折葉を初め世間の人に云たじや無いか……、オヽ之はしたり、餘りの嬉しさに言葉さへ出ぬと見える、では此上に猶ほ充分合點の行く樣、ドレ緩りと今までの事を言聞さうか。」
斯く云ひて余は、傍なる彼の破れし棺に腰を卸し、胸の怒を撫鎭めながら、
「コレ二重の妻那稻、汝の惡事は誰も知るまいと思ふて居やうが、イヤサ世間の人は誰一人知らぬけれど、死だ汝の所天波漂が能く知て居る、波漂は此墓窖から逃れ出て早く那稻に顏見せて嬉ばせ度いと自分の家へ歸た所ろ、主人と云ふ自分の役目、那稻の所天と云ふ自分の場所は既に外の人が塞いで居た、其人は誰有らう花里魏堂と云ふ波漂の第一の親友、第一の敵で有た」と云來るに、那稻は殆ど靠れし壁より倒れんとする程に蹌踉きしも、僅に其身を支へ留たり、余は構はず言葉を繼ぎ「毎も波漂が讀書抔する裏庭の小徑で有た、魏堂は波漂の腰掛臺に、波漂の樣に腰を掛け汝を自分の妻の樣に抱き夫婦よりも猶親い愛の言葉を交して居た、汝豈も忘れは仕舞ひ、それが波漂の死だと云ふ翌日の晩の事、死だ所天に一宵の祈も捧げず、早くも不義の男を引込むとは餘り早過ると云者では有まいか、イヤ夫よりも猶早過る事が有る、汝は波漂と婚禮して三月目に既に魏堂と通じた事は汝も云ひ、魏堂も云た、樹の影に身を隱し、其の樂しい言葉を聞て居た波漂の心を何の樣で有たと思ふ、其時波漂が堪兼て少し身を動かした所ろ、汝は樹の葉の音を恐れ、茲は波漂が愛した場所ゆゑ幽靈が出るかも知れぬと恐ろしさうに振向た事を忘れは仕まい、其時の幽靈は斯く云ふ波漂、己で有た。己が波漂の幽靈だ、其場で直に現れ出て、奸夫奸妻に知らせて遣うかと思たけれど汝の樣な類の無い惡人には又類の無い復讐で無ければ了ぬと己は決心して立去た、夫から此方艱難辛苦は云ずとも分るだらう、目を潰さるれば其敵の目を潰して怨みを返し、齒を拔るれば齒を拔返す、是が本統の復讐ゆゑ己は其旨を守り、魏堂が己から那稻を偸だ樣に己も魏堂から其那稻を偸み返し、那稻が既に邪慳な僞りの妻で有た通りに、己も那稻に邪慳な僞りの所天と爲る積で笹田折葉と姿を變へ、魏堂の友達と爲り、汝の許へ入込だ所ろ、案じるより産が易いと云ふ通り、己から汝に婚禮を求めぬうちに汝の方から既に婚禮を求めて來る事に成た、夫等の次第は己より汝が能く知て居る筈、斯して、到頭[#「到頭」は底本では「到底」]二度目の婚禮を仕たからは汝は全く己の品物、捨やうと毀さうと、或は腐るまで此墓窖へ閉込て己が受た丈の苦みを受させやうと己の勝手と云物だ」と、一々に言聞すに、彼れ幾度か白くなり青くなり身も世も有れぬ程に、我と我が心を苦め聞き居たるが最後に及びては己の命を防ぐと云ふ、人間ドン底の了簡に返りしか眼に一種の決心を現はし來り、余が言葉の一句/\に彼れ少しづつ頭を上げ、徐りそろりと余が前を過んとする樣、虎の顋より逃去らんとする狐にも似たらんか、アヽ彼れ逃れしとて如何ほどの事をや爲さんト、余は多寡を括て知らぬ顏を見せ、心に復讐の旨味を味ひながら控るに、余が言葉の漸くに終らんとする頃、彼れ必死の力を集め宛も飛燕の早さにて一散に墓窖の戸の方に馳行きたり、戸を推開きて彼れ逃去らん心汚し。