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 白髮鬼
 黒岩涙香
 

        九二

 余も躍り那稻も躍り、躍り興じて興正きようまさたけなはなる頃、那稻は愛の言葉を余が耳に細語さゝやき初めぬ「アヽ嬉しい事、ヤツト貴方は眞實に私しを愛する樣に成ました」と云ふ、余の樣如何にも眞實の愛に溺れし如くなる可し、余は實に愛に溺れぬ、もゆる如きにくみの心をいだきながらも那稻の愛に溺れざる事あたはず、何もも今宵一夜、是が此世の終りと思へば暫く我が心に自由を與へ、世の若き花婿と同じく愛の言葉をあぢはふも別に妨げ無しと思へり。
 れば余も亦那稻の言葉にし「ヤツトとて、初めから眞實に愛すればこそ此通り夫婦と云ふ間柄に成たのサ」と、口には云へど心には余自ら我言葉わがことばの何の意味たるを知らぬ程なり、那稻は嬉しげに低く笑ひ「イヱはじめから貴方は餘所よそ/\して居らツしたのですよ、夫でもつひには餘所/\しく仕切しきれずして熱心な戀人に成るだらうと夫を私しは待て居ました、今夜と云ふ今夜は本統に熱心が見えましたから私しも張合はりあひが有ると云ふ者、眞逆まさかの時には互に命まで捨合ふと云ふ程の愛に成らねば、夫婦と云ふ甲斐が有ませんもの」と云ひ、早や余を彼が爲に命もをしまぬ戀の奴隷と成りはてし者の如くに思做おもひなして益々余に薄寄せりよるにぞ、余も一層彼れに密接するに、余の熱き吐く息は彼れが黄金こがねの髮の毛をそよがせたり。
「オヽ命まで捨るとも、既に和女そなたの爲め一旦死でうまれ返つたも同じ事では無いか」と言掛け彼れが痛く驚きはせぬかと氣遣ひて早くも言葉を直しつゝ「昨日までの老人が、今日は少年に生れ返ツた心地がする」と言繕いひつくろふに、彼れ益々よろこびて「ナニ、仰言おつしやる程の老人では有ませんよ、貴方の樣子には何所と無く若々しい所が有ります、老人ならば此樣には躍れません、丁度私しとは良い一對の夫婦です、最う老人老人と仰有おつしやツて下さいますな。」
 余若し眞實の老人ならば此言葉を聞き如何ほどか嬉ぶならん、彼れは男を喜ばせる言葉を知り、折に投じて、最巧いとたくみに用ふるは生れ得たる妖婦の本性と云ふ可きか、思ふに彼れの向ふ心中しんちうは猶ほ猫の鼠に向ふ如くなる可し、彼れむさぼくらふ慾心は滿々たれども、其貪喰そのむさぼりくらふ前に於て充分に飜弄ほんらうし、或はとらへ或ははなち、以て自らたのしむなり、去れど余が鼠に似ず實は虎より猶ほたけき決心あるを奈何いかんせん。
 余と彼は愛の言葉をさへづりながら、旋風つむじかぜの如くに躍れる一群ひとむれの中に舞込み、頓て音樂の音が靜々しづ/\と遲くなり一段の終りをつげるまで躍りしが、那稻には猶ほ共に躍らんと言込みたる紳士も多ければ、余は那稻を人に渡し、第二の躍りのはじまるを見て、ひそか此室このへや拔出ぬけいでたり、實に余は愛とにくみに心疲れ暫ししづかなる所に安息せざれば我身の續かぬを覺えたり、室をいでて廊下を歩むに舞踏室の雜踏ざつたふに引替へて殆ど人の影も見えず、余が爲には蘇生の思ひあれど、唯だ物足らぬ心地するは從者瓶藏の不在なり、斯る時に彼れ居たらんには必ず余がそば走來はせきた何呉なにくれと氣を附けて余が心の幾分を慰む可きに、今は彼れ茲に在らず、余は打鬱うちふさぎて漫歩するに、折しも通り合す給仕の一にん、余に向ひて「オヽ今し方まで瓶藏殿が居ましたのに、イヤ何か御用ならば私しが致しませう」と云ふ、余は怪みつゝ「別に用は無いが、今し方まで瓶藏が茲に居たとは。」
「ハイ彼れ一旦茲をたちましたが、船の出るまで猶間なほまが有ると云ひ、歸て來ました、夫から暫し舞踏室の中を見、貴方と夫人の躍るのを眺めて居ましたが、其中そのうちに最う時間が來たと云ひ、涙を浮めて立去りました」余は唯だ「さうか」と云ひ平氣の振にて聞流せしも、彼れが余の事をのみ氣遣ひわづかばかりの出船でふねの暇さへぬすみ、再び余の樣子を見に歸りしかと思へば、余は此世に於て唯一人ただひとりの親友に別れたる心地して胸も益々塞がるのみ。
 凡そ一時間も過しかと思ふ頃、氣を取直して再び舞踏室にり、躍り疲れて腰掛居こしかけゐる紳士貴夫人達より祝賀の言葉を受ながら、其許そこ彼許かしこと徘徊するうちの十一時の鐘を聞けり、スハまちに待たる復讐の手初てはじどき、十二時には來客一同へ晩餐を饗する定めなれば、其前に那稻を此室このへやより復讐の場所へ奪ひ去らずばある可からず、余は今更らの如く胸轟むねとゞろ身戰みおのゝくを推靜おししづめ、那稻は何所いづこと見廻すに彼れ今しも躍りをめ、だ此次の踊りに掛らず、四五の貴人と對坐して面白げにはなしせるにぞ、余はき時と見て、先づ徐々しづ/\其方そのかた寄行よりゆきたり、アヽ讀者よたくみに計みたる大復讐、是よりしてはじまるを見る。


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