白髮鬼
黒岩涙香
九一
既にして夜會は開かれぬ、アヽ此夜の會の如きもの又と此世に在るを得べき乎、凡そ當國の中に於て、當國へ來り遊べる外國人の中に於て、少したりとも交際家の名ある者招待を受けざる莫く、招待を受けたる者一人として來會せざるは無し、余が宿は當府第一の旅館にして、其舞踏室即ち當國第一の舞踏室なれども猶狹きを覺ゆ、美人と云ふ美人、紳士と云ふ紳士、今宵を晴と被飾りて滿場は唯だ活たる花園かと疑はる、目に入る姿總て美しく、耳に入る聲總て麗しき其中にも、美の又美、麗の又麗と云ふ可きは實に余が妻那稻なり、彼れ今までは其身の未亡夫人たるに遠慮し、幾何か人目に立たぬ粧ひを用ひしなれ、今は笹田折葉の新夫人、誰に憚る所も無く、彌が上にも華美を盡し、光を爭ふ衆星の中に在りて、彼れは冴渡る月の明かなるに似たり、彼れが到る所には諸人話の聲を留めて振返る程なれば、流石の余さへも、彼れの姿を見る度に殆ど動悸の高く打つを覺えぬ。
爾は云へ余に取りては是れ最も恐る可く最も悲む可き夜なり、今宵の樣に引替て、明朝は余如何なる人と爲る可きか、復讐の一念にて茲までは來りしも、復讐既に達すれば、余は目的も無く樂みも無く生存ふる甲斐も無き人間の脱殼と爲ん、十字軍の時代より血統連綿と續きたる羅馬内家は、今夜一夜に跡絶えて、明日よりは弔らふ人も無きに至らん、余は諸人の我を忘るゝ迄に打興ずる中に立ち、獨り斯る事を思ひ、思ひに沈みて恍惚たる折しも、何時の間にか傍近くに來りし彼れ那稻、笑を含みし和かなる音聲にて「貴方は今夜の主人では有ませんか、主人の役目を忘れて居ますよ」と云へり。
主人の役目、余は「オヽ」と驚きて猶ほ合點の行かぬ如く那稻の顏を見返すに「アレ最う舞踏を初めねば了ませんよ、貴方と私しが一順躍れば後は皆樣が續きますから」と云ひ早や手を取りて余を促せり、余は漸くにして我に歸れり、成る程余こそ今宵の主人、此席の花婿なり、來客の爲めなり躍りの序を開かずば有る可からず、躍りの後は復讐の大舞臺、好し/\徒らに恍惚たる時に非ずと忽まち心を引締たり。
去れど余は寧ろ迷惑げに「舞踏は至つて不得手だが」と云ふに、那稻は少し失望の樣子にて「不得手でも一生懸命にお躍り成さい、大勢と一緒ならば兔も角も、序開きに、皆の目を注けて見て居る所で足の拍子の合はぬ程見とも無い事は有ませんから」豫て知る彼れ巧者なる舞踏者なり、今宵は充分其の伎を示さんとの心なる可し。
「何の躍り。」
「後から直ぐに四配舞踏が續くことに成つて居ますから、兩人は匈牙利の三配舞踏にいたしませう、呉々も貴方が躍り損つては了けませんよ」余の言葉短く「好し」と答へつ、早や那稻の腰を抱き、イザ躍らんと身を構ふるに余とても固より其道の名人なり、殊に那稻とは四年の間幾度も共に躍りたる事あれば、彼れに後れを取る可きや、彼れ早や言葉にも似ぬ余の身構への輕きを見て且怪み且喜ぶの風も見ゆれど、余は成る可く彼れと顏見合ふを避くる樣にし先徐々と進み出でたり。
余は茲に至りて實に我身支ふるの難きを知れり、一念既に復讐に凝るとは云へど、昔し取慣れし彼れの手を取り、抱慣れし彼れの腰を擁き、豈に過し四年の樂かりし仲らひを思ひ出さざるを得んや、殊に婚禮の式を終てより彼れが顏、見れば見るほど益々美くしく、今宵幾百幾千の美人の中に彼れと見擬ふ者、一人だも無きを思へば、彼れが世間の婦人に幾層も立優る美しさ愈々現はれ、アヽ此の世界に又と無き美人、余が妻の又余が妻、余が爲に身も心も命までも任せあるかと思へば斷膓の想ひ無きを得ず、余は愛と憎みの中に立ち、我心を叱りながら、徐ろに起る音樂の調子に應じ、輕く那稻の身を引上げて躍り初むるに、彼れの足拍子は余の足拍子と全く合ひ、南國の人ならでは躍り得ずと稱さるゝ匈牙利の躍をば最も見事に躍り出たれば褒立る聲、四方より起りしが、頓て余と那稻と室を二三週せし頃は、續て躍る者益々多く、見る中に室は大舞踏の旋風を捲き初めぬ。
音樂益々急になれば躍も亦益々急に、那稻の熱い呼吸は余が頬に掛り、余が呼吸は那稻の前額に在り、余は心に起る樣々の愛情を暫し紛らさん者と思ひ高く蹴り低く踏み必死と爲りて躍り狂ふに、那稻も更に余に後るゝ事なく、彼れ宛も嬉しさに、堪ぬ如く、躍りながらも余が耳に其の唇を上げ來り、愛の言葉を囀り初ぬ、余は浮世を捨し身なれども再び浮世に入る心地せり。