白髮鬼
黒岩涙香
九〇
是より猶ほ樣々の儀式を踏み、余と那稻は族籍の帳面に夫婦の名を書留る事までも、滯り無く濟ませたり。
復讐の時刻、一刻/\に近くに連れ余は心益々燥立ち式を終りて寺の戸を出去る頃は、何事も總て氣に障り、癪に障るの種と爲る程とはなりぬ、既に余が迎への馬車の間近まで進みし頃、左右の人より余等の足許に抛つ花の中に、紅薔薇の最立派なる者ありしが、余は之を見るよりも先年羅馬の朝廷より賜りたる彼の盆栽の事を思ひ出し、彼の花までが魏堂と那稻の不義の胸を飾るに終りしかと又今更らの如く腹立しく、我れ知らず足を上げつ口の中にて「エヽ忌々しい」と云ひながら其花を蹂躙りて通り過ぎたり、群集せる人々は別に氣も附かぬ樣なりしも那稻一人は確に余が口の中の語を聞きたり、聞きて異樣に思ふ樣なりしも其儘に茲を去りしが、頓て迎への馬車に乘るや、彼れ何人も聞かぬに安心し、不審氣に余を眺めて「貴方は何故アノ樣に紅薔薇を踏にじりました」と問へり。余は少し返事に閊へしも「ナニサ、血の色をして居るから夫れで忌々しいと云たのサ」と早や所天たる者の口調にて云流すに、彼れ何故かビクリとしたれど唯だ是だけにて此事は又言出ず、其うちに馬車は余が宿に着きたり。
宿には既に數多の招かれ客あり、饗應の用意早や卓子の上に堆きまで整ひ居るにぞ、夫婦は一同の來客と共に席に就きしが、珍味は山海の美を盡せるも此席は夜に入りて開く筈なる舞踏の會とは違ひ、寧ろ眞面目なる方にして、來客唯だ目出度き祝の語を吐くの外、別に興に入る程の面白みも無く、云はば本統の無事の中に終りを告げたり。
饗宴の終りて客の思ひ/\に他の室へ散ずるを見、余は那稻の手を引きて退きたり。英國などの風にては此時より所天たる者、其妻に附纒ひ、妻と共の室に入りチヤホヤとする習なれど我が伊國にては饗宴濟みても猶ほ幾分の他人行儀を守り、妻に最終の自由を樂ませる爲め夫婦別の室に退き、次に開く夜會舞踏などの濟みたる後にて初て妻とし夫として打解るなり、尤も此格を破り饗宴の終りたる丈にて、未だ夜會の來らざるに既に夫婦と爲り濟す英國風を便利とする人も有れど、余は兔に角余だけの品格として爾る事は出來ず、殊に夜會とても最う暇も無き事、其上那稻は衣服を着替る丈にても數多の時間を取る事なれば、余は彼れが其居間に充てたる一室へ送り屆け、彼れが打寛ぎて腰を卸すまで見屆けて我室に歸りたり。
茲には猶ほ從者瓶藏がアベリノへ立もせず控へ居るにぞ、余は彼れを促すに、彼れ何とやらうら悲く見ゆれども、余が言附の負き難きを見て、唯々として退きしが、頓て余の密月の旅に上る一切の仕度なりとて、昨夜來彼れが取纒めし荷作を一々持ち來りて余に渡し「夫では暫しアベリノで待て居ますが、巴里でお宿が定り次第直に電報を頂きますれば、早速驅附て參りますから」と云ひ別れ惜し惜し立去りたり。
彼れが心根余は憐まざるに非ねども、彼れの如く年若き間は、愛情の爲め何も彼も忘れ易き者なり、彼れが行く方には李羅と云ふ最愛の目當あり、余よりの沙汰を待つうちに間も無く夫婦の縁を固むるに至る可く、當分は余の行衞の知れずなりしを怪みもし悲みもす可けれど、其中に打忘れて樂しき生涯に入るなる可し、彼れが身の上、憐む可きにあらで實に羨む可きなり、余が境涯に比べては誰の境涯とて羨む可からざらんや。
斯く思ひて余も自ら慰め、窓の戸を開きて見るに人々が余の婚禮の爲に騷げる樣は皇帝の即位式も斯やと思ふばかりなり、余の宿の前は云ふに及ばず、目の屆く先々までも無數の人集りて躍り興じ、余が爲に幸福を祈るの歌を謠へり、夫も無理ならず、余は縱し此身が死なぬ迄も今日を以て我身一代の終りとし、此世の暇と云ふ心にて、有る丈の金を費し、豫てより宿の主人に言附けて町々の酒店を買切り一日の縱飮所と爲し全市民を饗應するのみか、猶ほ貧民の集ふ場所場所へは散錢を袋にして持行せ、配らせるなど、輕目郎練の殘したる身代を大方は散し盡せり、殘るは唯だ墓窖の中なる珠玉寶石の類と余が先の日革包に詰めて船長羅浦に渡し、船の中に預たる通貨のみなり、余の前に其類なく余が後に其匹なき大復讐、斯かる儀式を以て祝するも相當なり、余は思へり、況んや海賊の盜み溜めたる大身代斯してなりとも施さずば、彼れ輕目郎練の罪、余の罪と共に、一厘だも亡ぶるの道なきをや。
余は滿足して窓を締め、暫くするうち夜會の初まる合圖の鈴の鳴るを聞けり、此音宛も余が爲めには復讐の戰場に向つて「進め」と云ふ惡魔の大號令の如く聞えたり。