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 白髮鬼
 黒岩涙香
 

        八九

 入來いりきたる妻那稻は、此度このたびの婚禮に假に父分と定めたる紳士マンシニ氏に手を引かれ其腕にもた[#「馮/几」、第4水準2-3-20]れてあり、徐ろ/\と歩みる其姿は最も清楚なる作りにして白き天鵞絨びらうどの服に飾りとては唯だ夜光珠だいやもんどのみなれど、其の上に掛けたる外被かつぎけむの如く霧の如き組糸にして、あたひは夜光珠に劣らぬ程たつとかる可く、[#「研のつくり」、第3水準1-84-17]かうべよりすそまで垂れしは世間の婦人の眞似だも出來ぬこしらへなり、彼れが斯く淡白によそへるは、其身が既に寡婦にして即ち二度目の婚禮なるにり一つは又今夜祝宴の席にり尤も華美なる衣服に着替る積ゆゑ、夫と是との對映うつりあひを目立しめんと思ふに寄るべし。
 尚彼れは既に寡婦の身分たる爲め自ら花嫁と云はるゝを憚る如く、附添の女中をつれず女中の代りに八歳ばかりなる童子をば、に在る天使えんじえるの如くに仕立て之を其身の供に連たり、畢竟するに初ての婚禮にて儀式萬端を知らぬ者こそ女中の附添を要するなれ、既に一たび其場を踏み萬事を心得たる者は附添人に及ばぬ筈なれば余は那稻の用意に感心せり、猶ほ那稻の前には五歳か六歳ばかりなる女の子二人、左右に分れ、宛も女皇によわうの先を拂ふ人の如く那稻に向ひて後樣うしろさまに歩みながら、那稻の前に白薔薇はくしやうびの花をきつゝ進めり。是も那稻が豫て仕込みし者なる可しと余は益々感心しつ子供の顏を篤と見ると、孰れも交際社會に時めける貴人紳士の愛兒あいじなり、扨は那稻の出世にあやからせんとて親達が進みて貸與かしあたへし者と見ゆ、是等の親達にして那稻の心と今日こんにち以後の運命とを知らば、決してあやかり度しとは思はぬならんに……。
 一切の有樣、實に那稻の云ふ昔々譚むかしばなしの趣きに似たり、斯も立派なる婚禮は畫工ゑかきゑがきし事無かるべし、頓て那稻は余のひかゆる神卓の前に進み來り、余と並びて腰を卸しつ其際そのきはにニツと余を見て會釋ゑしやくせり、其顏其笑そのゑみの愛らしきこと今更ら云ふも管々しけれど、余はゾツと襟元の寒きを覺えぬ、アヽ是れにも無く天女の仲間にも亦無く、人間世間には猶更に有る事なき天下唯一の美人なり、此の美人の所天とせらるる余は如何なる果報ものぞ。
 讀者、讀者余は暫しが程、其美しさに氣を呑まれ一切のうらみも復讐の目的も打忘れて恍惚とし心の底には那稻と婚禮せし時の如き愛の情の込上こみあげんとするを覺えたり、是れなん惡魔の仕業にやた神の御心にや、否々余が心の弱き爲なり、今までたくみに計みたる大復讐、茲一歩と云ふ今と爲りに心弱くしてかなはんやと、漸く氣附きて我が恨を呼起よびおこし再び那稻を見し時は那稻早や神の御前みまへかうべを垂れ、默祷に餘念も無きは、夫婦としての此後こののちの幸福を祈るにや、彼が汚れたる心にて祈るとも唯だ神をけがすのみなり、夫とも祈れる振をして控ゆる丈の事なるや、何さま其姿の殊勝げなるは流石尼寺に人と爲りし身だけ有りて、心なき木石をも感動せしむるかと思はるゝ程なれば、余は愛と恨の兩道ふたみちに心をひかれ孰れが孰れ、殆ど夢中のおもひあり。
 余も默然もくねんとして神前に首を垂れたり、此世の恨みと此世の愛に屈託すること余が如き者神の御心に叶ふこと思ひも寄らず、余と那稻と孰れが心黒く孰れが罪深き、自分にも分らぬ程なれば、畢竟余を斯までに墮落せしめしも僞り深き那稻の所爲しよゐなれば嗚呼余は那稻を恨まざる能はず、如何ほどの愛情、湧出わきいづるとも余が恨を消すに足らず、愛のもゆれば燃るほど恨み百倍につのり來り、祈る言葉も語を爲さず、最早や是れ神も無用、祈りも無用、唯だはじめより決せし通り復讐の一筋あるのみ、復讐の外の道に心を引入ひきいらる可けんやと、漸く思ひ定めて余の首をあぐるに早や長老を始め其他の僧侶、夫々の席へ構へるにぞ、余は天主教の儀式に從ひ、妻に贈る可き固めの指環を祈祷書の上に置くに長老は之に神聖なる水を注ぎたゞちに清め終りたれば余は之を取返し第一に那稻の母指おやゆびに之をめ、次に人指指ひとさしゆび、次に中指と段々に移し置き、最後は其無名指くすりゆびに環め終りぬ。
 那稻は此の指環に氣附きしや否、氣附しならば愕然として驚かずとも幾何いくらか怪む色のあらはる可きに、彼れ少しも其色なきは全く氣の附かぬ者なる可し。殊に彼れ最初の婚禮とは違ひ、左まで顏紅かほあかむる事も無く、少しの事に戸迷とまよふなどの事も無く、充分落着き、充分靜に、又充分滿足して妻たるの式を踏みしは寧ろ彼れが心の奧底にいと冷淡なる所あるを見る可きか、莫遮さあれ彼れもとより余が妻にして今又余と婚禮せし上は其指環の如何いかんかゝはらず、余が妻の又余が妻なり、余の持物、余の奴隷、余より逃れて去る可くも非ず、いかすも殺すも全くの余の自由、他人が何と云はうとも憚る所少しも無けん、面白し、面白し。


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