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 白髮鬼
 黒岩涙香
 

        八七

 頓て半時間ほどを、余は拔足しつゝ瓶藏の室に到りてのぞき見るに、彼れ眠藥ねむりぐすりの效目にて前後も知らず熟睡せり、片手に余の外套を持ち片手にはけもちしまゝ、仰向樣あふむけさまに椅子に寄れるは外套の塵を拂ひも終へずして夢路にりたる者と見ゆ、是ならば彼れ最早もはや余の舉動を見る能はじと余は安心して居間に歸り、次に窓の戸を少し開きて戸外おもての樣子を伺ふに何時いつの間にか雨降出ふりいだし、殊に冬の夜風の物凄きほど加はりて往來ゆきゝの人も全く絶えたり、此向このむきならば此上に夜のふくるを待つにも及ばず、今の中に思ふ仕事を濟せてんと、余は雨着あまぎの襟を首の上まで捲り上げ帽子眉深まぶかに引卸してそつと宿の裏口より立出づるに、雨の音風の音に紛らされて余の足音は宿の者さへ知る能はず。
 忍び行くは孰れの地ぞ、余が曾て葬られし羅馬内家の墓窖なり、今時分墓窖に忍び行くは實に狂氣の沙汰にして、見る人あらば余を何とか稱す可き、去れど幸ひにして何人にも逢ふ事なくして目指せる場所に行きつきたれば、余は是を復讐の最後の準備と心得必死となりて思ふ仕事に取掛りしが、火の氣の絶たる場所と云ひ、殊には地びたの仕事なれば其寒きこと云はんかたなくはては骨までも凍るかと疑はれしも余は少しも怯まずして凡そ二時間の後漸く思ふ存分に爲し遂げ得たり此準備如何いかんの事ぞ、讀者遠からずして知るをべし。
 歸り道は猶ほ更に淋しくして燈影あかりの差す家とても無ければ、余は姿なりにもふりにも構はず一散に走り來れり、第一に又差窺さしのぞくは瓶藏の室なれど彼れ初めの通り眠りし儘なり、余は滿足して、我が室に歸り時計を見るや早や翌日の午前三時にて、即ち、余が婚禮の當日とはなりし者なり、次に雨着を脱ぎ、[#「研のつくり」、第3水準1-84-17]を泥だらけの靴と共に廢物の物入に納め、後刻ごこく婚禮の場に臨む余が容貌は如何にやと、鏡に向ひて照し見るに、余は唯だ「アツ」と驚きたり。
 讀者よ、世に恐しき者は數々あれど余が姿の如くなるは稀なり、散亂れたる白髮しらがの間に青白き顏半ば現れ、全體の相合さうがふ唯だ復讐の一念の爲に一點の慈悲も無きかと思はるゝ迄に變りはてて、いとど光れる鋭き眼は恨を帶びて物凄し、是れなん先ほど以來、唯だ恨に勵まされ、他人に出來ぬ恐ろしき場所にて仕事せしが爲なる可し、は云へ斯く相合の變るほど熱心ならずば此復讐は仕遂げ得まじ。
 去ればとて此顏にて婚禮の儀式にのぞまる可きや、余と那稻と差向ひならば兔も角、外に立會たちあふ人も有る席なれば充分容貌を柔げねば成らずと思ひ、余は先づ心を落着けて煙草を呑み、猶ほ髮を撫附けて「サア波漂、まちまつたる大目的の達す可き時來りしぞ、何ぞ心を勵して喜ばしく一笑せざるや」と自ら叫び、しひゑましげに顏をくづして又鏡に向ふに、猶ほ日頃ほどにはならざれど、其の鬼らしき姿は何うやら先づ紳士らしく見ゆる迄に至りしかば、此上一眠りせば益々柔ぐならんと思ひ、鏡の前より立去る折しも「未だお休みに成りませぬか」と云ひつゝ戸を開きて入來いりきたるは彼の瓶藏なり、彼れ漸くに覺めしと見え、まぶた猶ほ重氣おもげにして日頃の介々かい/″\しき瓶藏に似ず、余はわざと怪みて「オヽ其方は先刻から何をして居た、大層靜で有たが」と云ふに彼れ面目なげに「イヤお酒に慣れぬ者ですから、ツイ醉倒よひたふれて眠ツて居ました。」
「爾か夜が明れば愈々婚禮だから其方も今の中に寢て置くが能からう」と言ひ放ち、瓶藏を退けて余も直ちに臥床ふしどりたり。
 午前八時の頃に起出おきいでて再び天氣を伺へば昨夜の雨は全く止み、唯だ風のみは少しく殘れど旭日あさひ輝きて寧府の灣を照し、一天晴れて雲の片影も無し、儀式は午前十一時との定めなれば、間も無く身の廻りの仕度に取掛り十時少し過る頃、天晴れ花婿に成濟なりすまし立會の一にんなるマリノ侯爵と共に馬車に乘りて宿をいでたり。
 豫て市民の中には余の婚禮を祝せんとて樣々の趣向を爲したるも多く、余の馬車を見るよりも其前其後にむらがりてうたふも有り躍るも有り、馬も屡々驚きてくるはんとする程なれば馭者も氣を附けろ/\と通り行けども、余は唯だ生涯に又と無き最大事の期と思へば諸人もろびとの聲耳にらず、心の内異樣に騷立ち、嬉しきかと思へば悲しくも有り、忽ちにして我が生涯を過ちたる悔恨の念しきりに起れば又恨しさ腹立しさに堪へず、狂人の如く聲を發し狂人の如く前後に構はず狂ひなば、胸中の欝屈發散して氣も落着くならんと思へど、勿論る事の出來る場合に有らねば唯だ有耶無耶を忘るゝ爲め、絶間たえまも無く口を開きマリノ侯爵に樣々の話を仕掛くるに侯爵は余の樣子を怪み、何か心に悲みを隱してしひて自ら喜ばしげに見せ掛ける者に有らぬかと見て取りし樣子なりしも、爾とは云はず、然る可く余が相手と爲る中に馬車は漸く定めの寺に着きたり。


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