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 白髮鬼
 黒岩涙香
 

        八六

 寶物を取にくとは慾深き那稻が心は如何ほどか嬉しかる可き、去れど此返事を聞く余が心は那稻よりも猶嬉し、余が復讐の手續てつゞきは此の返事唯一つにて、おちも無く運びたればなり。よつて余は明日あす婚禮の席にて目出度めでたく顏を合はせるの約束を爲し、通例の許婚兩個ふたりが分るゝ如く、分れを惜みて分れ歸れり。
 嗚呼今日一日が命の瀬戸せと、一切の準備濟みたりとは云へ猶ほ今日ならでは運び難き事柄も無きに非ず、總て運動の順序を附け手筈を定めて歸り來たるに出迎ふる瓶藏は「先刻より貴方のお歸りを待て居る方が有ます」と云ふ、扨はと頷き應接の間にりて見るに是れ別人ならず、先の日シビタゆきの船を頼みし彼の船長の羅浦なり、彼れ必ず船の都合を整へて其知らせに來し者ならんと思へば言葉短く樣子を問ふに、彼れ何も彼も註文ちうもん通りに運べりと云ひ、明後みやうご朝の五時より七時の間に出帆する都合なれど、其上に猶ほ二時間は待て呉れる事に話し置きたりとの事なり。明後朝の五時より七時、是れ余に取りての最も都合好き時間なれば、余は其上を待つに及ばずとて、彼れの注意の能く屆きしを謝し、更に必要と認めて豫て作り置きたる荷物一個を彼れに渡し、是は出帆の時まで船長に預け置き呉れと頼み、猶ほ彼れに幾等かの物を取らせて歸したり。此荷物は古き革包かばん錠卸じやうおろしたる物にしてまづし旅客りよかくの持物かと疑はるれど中には余が使ひ殘せし幾千萬の紙幣のみを詰めし者なり。次に余は瓶藏を呼寄せて「知ての通り明日あすは愈々那稻夫人と婚禮する事に成たが。」
「ハイぞんじて居ます。」
「夫に就き其方そのはうに少し言附る用事が有る、其方はおれの使ひと爲りアベリノなる李羅のうちまで行て來い」余はもとより明日あすを限りに此世には用の無き身、彼れにていよく暇を遣り彼れを其望みの通り李羅と夫婦に爲し遣りて後々まで樂く暮さしむる積なり。
 瓶藏は少し怪みながら「貴方の仰せと有らば行て來ますが、明日あす此地を立つとしても、往復に三日は掛りますから。」
「爾サ往復に三日掛るが、よしんば四日五日掛つても好い、サア李羅の母へ此手紙と此箱を屆けて來い」と云ひ密封したる箱一個書状一通を渡したり。箱の中には瓶藏が生涯を送らるゝ丈の資金を入れ、手紙には李羅の母へ向け、瓶藏を李羅の養子にせよとの事を記し、猶ほ其中へ瓶藏宛の一通を封じ込め、是には余が昔し使ひたる羅馬内家の老僕皺薦と老女お朝との老先安く送らるゝ手宛てあて及び差圖さしづをも記したり。
 余は更に語を繼ぎて「おれ明日あすの婚禮が濟めば明後日あさつての朝早く妻と二人で密月みつづきの旅に巴里へ向け出發するから、其方は己の歸るまで用は無い、李羅の許に逗留して待つが好い」と云ふに瓶藏は恐る/\「旦那樣、私しもお伴を願ひます。」
「イヤ密月の旅に伴などは邪魔になる。」
「でも先日から貴方の御樣子を伺ひまするに、外の方の婚禮ぜんとは違ひ、うれしげな色は見えず、何だか痛くお氣に掛る事が有る樣に考がへます、私しは貴方のお身の上が氣に掛り密月の間、アベリノで待て居られません」彼れが余の身を氣遣ふこと今にはじめぬ忠義にて余は深く感じたれども「夫は其方の氣の迷ひだ」と云流いひながすに彼れ猶更に熱心を加へ來り「イヤ迷ひで有ません、私しが初めてあがつた時から貴方の御樣子には何だか變な所が有り、餘ほど氣のふさぐ樣に見えましたが此頃は猶更です、も時々は遲くまで獨り書き物を仕て居らつしやる事も有り、丁度心の底に深い傷でも有て其痛みが猶ほ癒えぬ樣に思はれます、私しがお伴をせずば行く先々で何の樣な御不自由があらうかも知れませぬから」と益々眞實に言出いひいづれど勿論聽く可き事に有らねば、余は邪慳じやけんしりながら之を叱り「其方は下僕しもべの分際で爾深く主人の事に口を出す者で無い、眞に不自由な事が有れば其時旅行先から其方を呼寄よびよせる事も出來る、李羅の許で待て居ろ」と言放つに彼れ返す言葉も無く、唯だ心配氣にかうべを垂れて退きたり。
 頓てりて後までも彼れ余が密月の仕度を氣遣ひ、衣服調度を取纒めて革包かばんなどに詰ながらも、絶えず余が舉動に注意する樣子なれば、余は樣々の用事を拵へ暇の無き程言付くれど猶ほ全く安心する能はず、殊に余が身にはだ一つ何人にも知らさずして整へねばならぬ肝腎かんじんの仕度あり、夜深よふ人定ひとさだまりて後取掛る積なれど、瓶藏が[#「瓶藏が」は底本では「瓶造が」]容易に寢に付く樣子無ければ、余はやむを得ず一杯の酒に無味無臭なる強き眠り藥りを入れ、瓶藏を呼びて之を呑ましめ、其結果如何にやと待ち居たり。


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