白髮鬼
黒岩涙香
八三
喜びて去る船長に分れ余は町の方へと歩み來るに、但ある古着屋の店先に人の大勢集ふを見たれば、扨はと氣を附て眺むるに、此店は是れ余が先に墓窖より逃れ出し時立寄りて珊瑚漁夫の古服を買たる家なり、其時の事猶歴々と余が胸に在り、老たる主人の顏は勿論、其言ひし詞さへ猶忘れず、彼れは確に其妻の不義を見て姦夫姦婦を刺殺し、今は此世に何の樂も無き身なりと云へり、其後とても彼れが事を思ひ出し、我身に引比べしことも屡々なる程なれど、余は人の群れるを見、徒に通り過る事能はず、何か主人の身に異變でも有はせぬかと氣遣ひて人を推分け窺ひ見るに、アナ無慘や彼れ老人自ら短劍にて咽を突き、寢臺の上に血に染みて横はれるを早や警官が出張して彼れ是れと檢むるにて有りたり、猶ほ傍の人等が私々と噂し合ふ言葉を聞くに、何の爲やら知らざれど豫てより欝ぎ勝に見えたるが昨夜の中に自殺せしなりと云ふ。
嗚呼余は知れり、彼れ其の一身の味氣無さに堪へず、自殺して此世を振捨去りしなり、彼れが寢臺に最古き女の肩掛けを敷き有るも是れ昔し其の不義の妻に買與へたる品に非ざらんや、之を敷きて其上に命を絶ちたる彼れの心察するに餘りあり、アヽ讀者、余とても亦彼れと同じく不義せる妻に我恨を復さんとする者なり、愈よ恨みを復し得たる其後は如何になる可き、終には彼の古着屋の主人と同じく、慰め呉る人も無く、世の無常に堪兼て野倒死する事と爲らんか、是を思へば我身の墓無さに堪兼て片時も茲に居る能はず、余は唯だ一片の囘向を口の裏に唱へつゝ顏を負けて此所を立去りたり。
途々とても余を知れる家の窓より余が婚禮の近くを祝する爲め、余が足許に花など投る人も有たれど余は拾ひ上るも懶く、拾上ても其家の前を行過れば直ちに打捨て悄然として宿に着きしに、從者瓶藏は豫て此五六日余が樣子の異樣なるを氣遣ひ居し者と見え、其身も何やら心配げに幾度か余の顏を窺き、成る可く心を引立る如き飮物を作らせて余に捧げたり、余は彼れの忠實に感心し、切ては顏持だけも晴やかにせんと思へど深く心の底よりして欝ぎ來れる余が顏は容易に晴渡る可くも非ず、頓て日の暮に及びし頃に瓶藏は是れこそ余を引立るに足ると思ふ如く、其身から笑頽れて一通の手紙を持來れり、受取り見れば擬ふ方なき那稻夫人の筆蹟なり、成るほど通例の人なれば婚禮の前に其の女より手紙を得るは定めし氣の晴れる事なる可きも、余に於ては結句感慨を深くするのみ、先づ瓶藏を退けし上、何事にやと開き見るに「二三の貴夫人今夕妾を祝する爲め觀劇を催すに由り御身も八時頃より來會あれ」との事を記せり。
芝居など見る心は無けれど是も許婚の所天たる我役を果せる道なれば、家に一夜、考へ明すより優ならんと思ひ、其刻限を待ち、那稻に贈る花束を作らせ、其束の結び目には鼈甲の枠に眞珠を嵌めたる高價なる留針を挿し、之を携へて劇場に到見るに正面の棧敷に當時時めく四五の夫人打集ひ、其中に又一入水際離れて美しきは即ち余が二度の妻那稻なり、前棧敷に在る見物の顏も、半ば此の方に捻曲られし如くなるは衆目の那稻に注げるを知る可し。
余は成る可く熱心なる戀慕の人を氣取り其棧敷に入行きて花を贈るに、那稻の喜びや居並ぶ夫人達の祝言など管々しくて余が耳に蒼蠅き程なり、挨拶一通りを終りて舞臺の有樣を如何にと見るに此度羅馬より來りし當國一の滑稽芝居師一座にて其の脚色は年老たる一紳士が若き妻を迎へ其妻に豫てより若き隱男あり、所天の留守に男と酒など酌交し、共に/\所天を罵ると云ふ筋にて、所天は早く妻に安心させ度いと云ひ衣紋作りつ花道より歸り來るに、我家の門の戸堅く鎖し、推せど叫けど開く者なく、其中に雨の降出し折角妻に見せん爲め注意して着飾れる被物まで、グシヨ濡と爲り困じ果るを可笑みより、妻が男と共に節穴より之を窺き突き合て面白がる樣、只管腹を抱へしむる程にて、時々に喝采の聲も起り、余が妻那稻も我れを忘るゝ程打歡ぶにぞ余は殆ど苦々しさに堪へず、如何なれば到る所に余が神經を刺戟する事のみ多きやと訝りながら輕く那稻の手を引きて「夫ほど此芝居を面白いと思ひますか」と問ふに那稻は猶半ば夢中にて「先ア那の所天の馬鹿げた樣が實に面白いでは有ませんか」と云ふ。
「イヤ所天は總て此通り馬鹿げた者です、斯まで馬鹿にされるとは知らずに婚禮を喜ぶのが人の情ですが」と余は堪へ兼たる厭味の言葉を漏らすに那稻は初めて心附し如く「アレ貴下は先ア」と云ひ、暫し次の句を考へ「芝居と本統の世間とは違ふぢや有ませんか。」
「イヤ違ひます、けれど芝居は世間の有樣を冩すのです、併し同じ所天でもナニ妻から馬鹿にされて知ずに居る者ばかりでは有ませんから」と言切たり、那稻は之を何と聞くにや。