白髮鬼
黒岩涙香
八二
余は四邊に人無きを見濟し、船長羅浦に打向ひ「君は猶ほ輕目郎練の事を忘れまいね」と問ふに羅浦は熱心に余の顏を見「何うして忘れませう、可哀相に彼れ先日到頭死刑に成たと云ひますが、彼れが地中海に見え無なつてからは我々船頭も詰りません、少しも面白い儲仕事が無いのですから。」
「では今でも彼れがお前の船に載せ他國へ逃がして呉れと云へば、お前は逃してやるだらうネ。」
「夫は逃して遣ますとも、無賃でゝも逃がして遣ります。私しの船は丁度先日修覆して塗替たばかりですから」と云ふ、是は弱きを助けんとする一片の義氣なれば余は少し安心して「實はお前の船で近々他國へ送て貰ひ度い人が有るが、何うだらうお前引請て送て遣ては呉れまいか、船賃は輕目郎練の拂つたより猶多く拂つて遣るが」船長は少く眉を顰め「夫は公然と送るのですか、極祕密に送るのですか。」
「極祕密に送るのサ」羅浦は忽ち頭を振り「イヤ御免蒙りませう。」
「船賃は望み次第だぜ。」
「夫でも御免蒙ります。」
「何故。」
「祕密に外國へ送て呉れなど云ふ人は何うせ法律の罪人ですから。」
「輕目郎、練とても同じ事さ。」
「イヤ違ひます、練は海賊で即ち吾々と同じ海の商賣です、彼れは賊ながらも吾々の船の物は決して奪はぬのみか、彼れが地中海に居る間は外の海賊が入來る事が出來ず、吾々一同彼れの爲に何れほどの徳を得たか分りません、夫だから彼ならば無賃でも逃がして遣ますが、縁も由縁も無い陸の上の罪人を逃しては、自分が罪人になりますから錢金には拘りません。」
成るほど船頭等の見識は斯の如き者なるかト余は私に感心し「イヤ私の頼む人は決して法律の罪人では無いのだよ、私の親友だよ。」
「ヱ、法律の罪人で無い、夫では隨分送て上無い者でも有ませんが、イヤお待成さいよ、罪人で無い者が極祕密に外國へ逃るなどとは。」
「イヤ幾等も有る例しさ、自分の家内に風波が有り、内に居ては苦られて堪らぬから暫し身を隱し度いと云ふのサ。」
「オヽ其樣な人ならば助けても上ませうが、全體何所です、何所まで逃て行くのです。」
「可なり遠いがシビタ、ベツチヤの港まで送附けて貰へば好い、夫から先は外の船に乘り替るから」船長は再び眉を顰め「シビタ、ベツチヤ、夫は餘り遠過ます、私しの船は彼所まで航海する事が出來ません、唯此の灣内を乘る丈ですから、若し途中で波でも荒くば覆へつて仕舞ひます。」
「夫は少し困つたなア。」
「だが外の船では可ませんか。」
「爾サ可ないと云ふ事は無い、唯だ其船長がお前と同じ正直者で、何時までも祕密を守つて呉れさへすれば。」
「夫は心配に及びません、船頭などと云ふ者は口さへ留れば爾う多舌る者では有ませんから」口さへ留ればと云ふ語の中には、定めし口留の錢さへ呉れゝばとの心も籠れるならんと余は早くも見拔たれば「口留するのは無論の事さ、だが差當り此船と云ふ見込が有るのか。」
「有りますとも、實は或會社の荷物ばかりを積み、此次の金曜日に茲からシビタへ立つ船が有ます、其船頭は私しの兄弟も同樣ですから是に乘らせては何うですネ。」
「好いとも。」
「其代り客を載せぬ船ゆゑ、強て載て呉れと云へば少し高いかも知ませんが。」
「高いは承知サ。」
「廿五圓も遣て下されますれば。」
「好し、百圓遣らう」船長は飛返り「ヱ、百圓夫は一身代ですが。」
「其外に周旋料としてお前にも百圓遣るから成る丈け祕密に。」
「ヱ、ヱ、私しにも、夫は餘り勿體無くて。」
「ナニ、百や二百の金は私の身には何でも無い。」
「貴方は本統に輕目郎練です、練は最初に金の束を投出してサア是だけ遣るから直に何所其所へ向け出帆しろと云ひ、返事が遲ければ直に短銃へ手を掛けましたが、貴方は前に相談し略合點させて置て其上で金を出すから、夫だけ練よりも紳士です」海賊に比べて褒めるとは通常の場合に於て許す可からざる次第なれど、眼界狹き船長等は海賊より上の人を知らねば之が無上の尊敬なる可し、余は唯だ可笑さを催しつゝ「イヤ私では無い、其の乘て行く人が金を出すのだ、併し其船長は其人に向ひ何事も問はぬ樣に、其人の言附には總て無言で從ふ樣に、爾して其人がシビタに上陸すれば總て其人の事を忘れる樣に[#「忘れる樣に」は底本では「忘れぬ樣に」]せねば了ないな。」
「勿論です。イヱ今云ふ男は至て物覺えが惡い上に、忘れろと言附れば直に忘れて仕舞ひます、金より外の事には少しも氣を留ぬ男ですから、百圓と云ふ大金を見れば其嬉しさに外の事は夢中です」余は衣嚢を探り一札の名札を出し「委細猶又相談するから此名札に記して有る私の宿まで、明日でも明後日でも來て貰はう」と云ひ、別に百圓劵二枚を出し「サア是が約束の賃銀だ」とて與ふるに、彼れは宛も嬉しさに夢中と爲りし如く轉々として分れ去りたり。