白髮鬼
黒岩涙香
七四
是より二日目にして余は親しく李羅を見たり、此の朝寧府なる彼のダベン侯爵より一通の手紙と共に何やらん小包を送り來れば、余は山の靜なる所に行き木の蔭にて景色など眺めながら獨り窃に披き見ん者と思ひ、其手紙其小包を衣嚢に入れ山の半腹まで登り行くに、道の傍に古寺あり、斯る寺には得て古代の珍しき繪額など有る者なれば、歩み入りて本堂を見廻すに是と云ふ程の物も無し、少し失望の想ひにて又立出んとする折しも年十四五と見ゆる小娘、神前に捧げん爲にや菓物の初生を手に持ち余と摺違ひて本堂に入行きたり。是若し瓶藏の褒立る宿の娘李羅には有ぬかと余は立止りて其再び出來るを待つに、程なく捧げ終りしと見え徐ろ/\と引返し來りしかば、余は横手より其前に歩み出しが、唯一目顏を見て、思はずも尊敬の念を生じ首を垂れて辭宜したり、是れ何の爲なるぞ、其顏の餘りに美しきが爲か、否否美しさは那稻に及ばず、殊に其衣服とても見る影も無き田舍娘の作りなれば少しも尊敬し首を垂るる所なし余は何の爲めに辭宜せしか、殆ど合點の行かぬ程なれども其容貌の孰れにか、何と無く清らかにして何と無く氣高き所あり、一目にて其心の純粹無垢なるを知らるゝが爲のみ、殊に何處やら其顏に宿の女主の面影も見ゆるにぞ余は是が李羅なるを疑はず、李羅は余の辭宜を見て少しく顏を紅めたるも、敢て恐るゝ樣子は無く、最と優やかに辭宜を返し、早や余を知れる者の如く「貴方樣は景色を御覽成さるのですか」と問へり、余は是に返事せず、唯だ柔かなる音聲にて「お前は李羅だネ」李羅は再び紅らみて「ハイ」と答へ更に「景色ならば是から左の方へ行くと大層好い所が御座います」と指さし示せり。
「お前は最う歸つて行くのか。」
「ハイ、貴方樣のお晝の仕度を致しますから。」
「オヽ感心だ、阿母さんを手傳て珈琲でも拵へるのか。」
「ハイ貴方樣の珈琲は毎も私しが拵へます。」
「道理で旨いと思つたよ、爾して珈琲を拵へる傍へ毎も瓶藏が來て手傳て呉れるだらう。」
「ハイ、瓶藏さんは親切なお方ですよ、阿母さんも爾申します、夫にネ、私しを料理が上手だなどゝと云ますから、アノ方の珈琲も私しが。」
「オヽお前の手で拵へて遣るのか。」
「ハイ私しが拵へて上ると瓶藏さんは何れ程お歡びでせう」と罪も無く話す言葉に、譬へ樣無き愛らしき所あり。
余は結れし我が心も之が爲めに開く如き想ひあれば、瓶藏の見立に感心し、打笑ながら「餘り瓶藏を嬉ばせると、寧府へ歸るのが否に成るかも知れぬから用心せぬと了ないよ」と戲るゝに李羅は猶ほ其意を解し得ぬと見え、不審氣に頭を傾くれど別に羞し相にはせず、瓶藏の[#「瓶藏の」は底本では「瓶造の」]如き正直者が斯る清き少女に目を附くるは天然の良縁とも云ふ可き者かと心の中に頷きて「イヤ李羅、阿母さんが待つて居やう、私はドレ左の方へ行き、今教はツた景色でも見て來やう」と云ふに李羅は「ハイ何時お歸り成ツてもお仕度の用意が出來て居る樣に仕て置きます」と答へ其儘に身を取直して、坂路を轉がる球より尚ほ輕く降り去れり。
余は其の後影を見遣つゝ我知らず最深き歎息を洩したり、アヽ讀者余が生涯は最早や取返しの附かぬほど何も彼も全く失ひ盡せし者なり、世には斯まで清淨の少女も有るに余は再び妻を迎へ樂しき月日を送らんとて得べからず、余は何が爲に李羅の如き罪も知らず汚れも知らぬ、眞に造化が作りし[#「造造化が作りし」は底本では「造花が作りし」]儘なる女を求めずして那稻の如き毒深き者を娶しや、アヽ問ふ迄も無く其仔細能く分れり、余若し婚姻の以前に李羅の如き者を見たりとて、其清きを知る能はず、田舍娘と思ひ做し、顧みもせざりしならん、余は實に社會の風俗に誤られし者なり、余の如き紳士とも貴族とも云はるゝ者は社會の風俗に縛られて令孃とか「素性正しき」とか云へる細工物を娶らねばならず、令孃の名は美なれども實は風俗に細工せられ、禮儀の爲には笑しからぬに笑を浮め、尊ばぬ人に頭を垂れ、須て交際の上に在る虚僞りの掛引を呑みたる怪物ならずや、交際に慣れしと云ふは僞りに巧なる異名なり、天眞の爛漫たる李羅などに比べては、人の手をもて泥塗し人形と、造化が作りし露出の美術ほどの相違は確に有り、泥塗りし人形は泥の爲に尊まれて社會の上に贅澤を仕盡して世を送り、却て李羅の如き者は朝より晩まで脂汗の乾く暇なき勞働人の妻と爲り、厩の如き矮狹き家に寢起して、榮耀の何たるさへ知らずに可惜生涯を費し了る、思へば社會風俗と云へるもの、造化の美術を妨ぐる爲に惡魔の作りし金網なるか、余は惡魔と云ふ者の有る事を信ぜざりしも今は信ぜぬ事能はず、人はでん/\鼓を手に持つ時より棺の底を足に踏む時まで惡魔の愚弄に爲れる者なり、中には婚禮と云ふ事は惡魔が人を馬鹿にする第一の大仕掛と、余は心の底より深き息を吐きながら再び見れば李羅の姿既に見えず、重き心を足と共に引摺りて、漸く李羅の指したる所まで登り行けば、伊國第一の絶景は扇の如く目の前に開き來れど余が心は開きもせず、唯だ人無きを幸ひに、但ある木の根に腰を卸し澁々として彼のダベン侯爵の手紙を披き初めぬ。