白髮鬼
黒岩涙香
七三
余の手を波漂の手に同じと云ひて那稻が卒倒するも無理ならず、余の手は實に波漂の手なればなり。
去れど余は卒倒したる那稻の始末に困じ、其身體を傍への椅子に寄掛け置き、周章だしく鈴を鳴すに親切氣なる老尼來りて、或は那稻の顏を冷水にて拭ふなど介抱の手を盡せば、其内に余は手袋を被めて波漂の手を隱し、其背を撫で乍ら「那稻、那稻」と呼返すに、固より健康の身體なれば間も無く眼を見開きて「アヽ本統に波漂が現れたかと思ひました」と口の裏にて呟けり。惡婦とは云へ、心の底の孰れかに、波漂に濟まずとの念ひは有り時々氣の咎むる事有りと知らる。洵に氣味の好き次第ならずや、斯て五分間と經ぬうちに那稻は元の機嫌に復したれば余は充分の親切を示し、何う見ても許婚の夫婦と見ゆる樣、愛深き言葉を番へ、殘り惜げに分れ去れば那稻も亦殘り惜げに送り去りしが、此夜余は定めの通り從者瓶藏を引連れて寧府を立ち、アベリノの地に到れり。
アベリノは讀者の知る如くサバト河を跨ぎ山を負ひ海に臨める小村にして伊國中の最も靜かなる所なり、人の氣風質朴にして土地の風景は絶佳と稱せらるれども、唯だ贅澤なる別莊若くは旅亭などの設無き爲め縉紳の客の行く事稀なり、時に詩人或は畫工などのまぐれ來る事は有るも是とて永く逗留せざれば、余の如き繁華を厭ふ人間には此上無き隱れ場所と云ふ可し、殊に余が泊りし家は海岸なれども漁師に非ず家の周圍に菓物の畑あり、其菓物を賣捌きて唯一人の娘と共に不足なく世を送れる老女の家にして、老女は名をモンタイと稱すれど村中の誰彼より唯だ「伯母よ、伯母よ」と云はるゝのみにて名を呼ばるゝこと無きは永年寡婦の暮を爲し、廣く人に尊はるゝ爲にも有らん、余は寧府なる余が宿の主人より案内を得て此家へ來りし者なるが、老女の樣子に何とやら氣高く奧床しき所ある故夫と無く身の上を聞くに、若かりし頃は村中評判の美人にして此家へ嫁せし後も袖褄を引く痴漢多く、終に其の一人は山の上より大石を轉がして菓物畑けに仕事せる此女の所天を壓殺し、己れの罪を全くの過ちなりと言張りて裁判を逃れし上、老女の許に詫來り、親切を以て老女に取入んとせしを老女は我所天の敵として痛く辱しめ、再び來る事の出來ぬ程にして還せしより、此れより後は烈女と云はれ、誰れ一人尊まはぬは無く、今日までも寡婦を守通せしとなり。是等の事を話すうちにも、或は悲しみ或は怒り、女ながらに侵し難き處あるより、余は殆ど感心し、那稻の事に思比べて同じ造化の作りし子に斯も相違の有る者かと心の中に歎息しつ更に娘の事を問ふに「ハイ娘李羅は」と云ひ諄々と今まで女の手一つにて育て上げたる艱難を説出す、其顏には掬み盡されぬ慈愛の色あり、余は少しの間なりとも斯る婦人の家に宿りしを喜び、之を孃李羅にと云ひて少しばかりの土産ものを贈りたり。
是より余は唯だ山に登りて海を眺めなど朝に夕に此地の景色を探るのみなりしが、三日目の日は天曇り雨の降出相に見えたれば室に籠りて讀書にも早や倦みつ、話相手もがなと思ふ所へ、靜に瓶藏が入來りしかば余は引据て浮世話を初むるに、瓶藏は何やらん心に思ふ所ある如き調子にて「旦那樣は、李羅を御覽に成ましたか」と問へり。
「此家の娘か、名前は聞たが未だ見ない、何故其樣な事を問ふのだ」瓶藏は纔に兵役を濟せしばかり猶ほ世事慣れぬ少年なれば、問返されて耻しげに少し其頬を赤くしつ「イヤ大層美しい女ですから。」
「美しい女の餘り美しいは、毒蟲の美しいと同じ事で、其の最も美しい所に毒が有るのだ、昔から英雄豪傑を失敗させる者は皆美人だ」瓶藏は近々に婚禮する余が口には不似合の言葉と見てか、怪げに余を詠め「爾でも有ませうが、花の美しいのも、景色の美しいのも、又美人の美しいのも總て同じ事です、毒は見る人の目に在るのです、清い目で詠むれば心まで爽かに成りませう」余はこの格言に感服せり、見る人の眼にさへ毒なくば那稻の如き毒なりとも己に溺れざる人に毒する能はず、毒は男子の自ら招く所なりと深く心に感じながら、笑を浮めて「其方も中々の哲學者だ、爾思つて李羅孃を褒めるは好いが、己の樣な老人は、其樣な若々しい言葉を聞く度に唯だ羨ましくなる計だ」瓶藏は俄に眞面目に成り「イヤ爾仰有る程の老人ではお有り成されません。」
「何だと、」
「イヤ私しは見て成らぬ所を見ましたかも知れませんが、アノ決鬪の時、目鏡を脱した貴方のお顏を拜見しました、決して老人では有ません。」
「でも此白髮は。」
「夫はお生れ附でせう、貴方のお目と云ひ、頬の邊の樣子と云ひ猶だ卅歳を幾歳もお越成されません。」
三十を越えぬ身が早や生て居る甲斐も無き老人と爲果しかと思へば、余は涙の自から湧來るを覺えたり「コレ瓶藏、人の老たと云ふは年には依らぬ、心に春の樣な陽氣を持てば、四十が五十でも若いと云ふもの、己は眼は若くとも心は頭の白髮と同じく若い人の陽氣は無く、疾くに老衰した人だ」と云ひ眼鏡を外して顏を示すに、瓶藏は余の味氣無き胸中を察してか、俯向しまゝ余の顏を見る能はず、アヽ彼れも亦余が爲めに泣けるにや。
余は話の陰氣なるに氣附き、忽ち心を取直して又笑つ「併し瓶藏、一度見たなら何度見るも[#「何度見るも」は底本では「何見見るも」]同じ事だ、唯だ其方が他言さへせねば。[#「」」欠字か]
「何で私しが他言などを。」
「己も爾思ふから其方には安心して居る、己は故有て黒目鏡を掛て居ゐるが此土地へ來れば夫にも及ばぬ故、今日からは再び寧府へ歸るまで脱して置かう、外して能く其方の爲に李羅孃の顏を見て遣う、心は老て居るけれど女の人相が鑑定出來ぬ程でも無いから、見た上で己の思ふ儘の所を其方に聞せて遣る」と云ふに、瓶藏は有難げに頭を垂れ、余の手を捉へて接吻せしが、猶ほも余が身の墓なきを思ひ續けて涙を隱し得ぬ爲にや、顏を余に傍向けし儘にて余の室より退きたり。