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 白髮鬼
 黒岩涙香
 

        七一

 魏堂の死を聞き那稻の顏には明かに安心の色見えしも、猶ほ其死際に自分の事か何か余の耳に細語さゝやきはせざりしかと氣遣ふ如く、言葉を廻して樣々に掘問ほりとふにぞ、余は手短てみじか掻摘かいつまみて魏堂が余に盃を叩き附たる有樣を語り「詰る所が是だけの事ですよ、貴方の名前は少しも彼の口から出ません、唯だ彼れは貴女を殺す氣になつたと見え、其席からすぐに貴方のうち馳附はせつけ皺薦を呼びきゝましたさうです、けれど貴女が留守ゆゑ、何か惡口雜言して立去つたと云ふ事です」と告ぐるに、那稻は眞實に安心し、はじめて嬉しげなるゑみを浮め「本統に厭な男です、私しの留守へ向ひ惡口雜言するなどゝは、アヽ私しが日頃から餘り親切に仕過しすぎましたよ。」
 其人の死せしと聞き安心して笑崩ゑみくづるゝが親切と云ふ者なる、余は其口前そのくちまへに呆れたれど何氣なく「ではかなしいとは思ひませんか。」
「何で悲しいと思ひませうアノ樣な人間を、イエ本統ですよ、波漂がいきて居ます頃は彼れ幾等か遠慮して居た爲めか隨分紳士らしく見えましたが、波漂の死でのちいやしい氣質を其儘に現しまして、最う交際を斷らうかと是ほどに思た事も度々でした。」
さう聞けば私しも安心です、實は彼の死をお知せまをし、貴女が若しや痛く泣悲なきかなしみはせぬかと夫が唯だ心配ゆゑ」と云掛て余も初めて笑を示すに「オヤ夫で貴方は大層眞面まじめに、私しから物を云ても返事もせずに居たのですか。」
「ハイ。」
「本統に貴方は何から何まで能く氣をお配り成さる、夫でこそ私しの見立みたて所天をつとです」と云ひ心の底より嬉しげに余が首に手をまいかたへの椅子へ引卸ひきおろしぬ。
 余はおもむろに其手を拂ひ「夫にネ、此決鬪の殘務が終るまで私しは獨りでアベリノへ旅行するつもりです、成る可くは貴女が此尼院このあまでらを出る頃には私しも歸て來たいと思ひますから、何時頃いつごろ茲をお出成でなさるか其日限そのにちげんを伺ひ度いのです」那稻は少し考へて「ハイ私しは一週間位逗留すると寺長じちやう言込いひこんで有りますから一週間がつきれば歸ります、夫に又、魏堂が死んだと成れば、何うしてもネーブルへ歸らねば成らぬ事柄が有りますから。」
 とは又如何なる事柄にや、余は怪みて顏を見るに、彼れ少し言憎いひにくげに躊躇ためらひしも「實はネ」と云ひて片頬かたほに笑み「魏堂が先日羅馬へ立つ前に、人間は何時死ぬるかも知れぬから、達者な内に遺言を書て置かぬはおほいなる間違まちがひだと云ひ自分で遺言状をしたゝめたのです」扨は彼れ蟲が知すと云ふ者にて己の近々きん/\に死するやも知れぬを想ひ遺言まで認めしかト余が異樣の想ひするに、那稻は語を繼ぎ「其遺言を私しへあづけきましたから、私は夫を寧府ねいぷるの役場へ持出さねば成ません。」
「シテ其の中には何の樣な事が書て有ます」那稻は又言憎げに「アノ私しへ何もも讓る樣に書て有るかと思ひましたが。」
「ドレ、手近に[#「ドレ、手近に」は底本では「ドレ」手近に」]在るならお見せ成さい」手近も手近、おの衣嚢かくしの中よりして一通を取りいだしたれば余は開きてあらたむるに成る程正式の遺言状にして其文中に「余が所有して死する一切の財産物件は悉く羅馬内家の那稻夫人へ無條件にて贈る者なり」と有り、アヽ魏堂は余が思ひしより猶ほ深く那稻に惑溺わくできせし者なり、余が昔し波漂たりし頃にしても余は那稻の爲めに斯る遺言書は認め得ず、夫とも那稻の手の内にて旨く魏堂をときくるめ、斯く無條件の證文を認めさせし者なるか。
 孰れにしても唯だ呆るゝのほか無ければ余は疉みて之を那稻の手に返しながら「是で見ると魏堂は眞實貴女を愛して居たと見えますネ。」
「サア腹のうちでは或は愛して居たかは知れませんが、併しわたくしは爾とはみとめませんでした」アヽ彼れにいだかれ彼に接吻せられ、彼れと夫婦の約束までして猶ほ彼れの愛を認めざりしと云ふか、余は殆ど返事する言葉なし、此暇に那稻は又も語を進め「ですが所有して死する一切の財貨物件と云へば魏堂が羅馬の伯父から讓られた財産も總て私しの物に成りませうか。」
 アヽ讀者、此問このとひを聞き何と思ふや、此の妖婦め、生涯使ふとも盡ぬ程ある余が家の財産を悉く我物とし、猶ほ心に飽足あきたらずして魏堂が羅馬の叔父より贈られし身代をまで我が手の裏に入れんとするにや、上部うはべに誠の皮を被れる僞りの塊りなるのみに有らず、上部に無慾の色を飾る慾心の塊りなり、斯も恐ろしき怪物が又と有らうか、夫とも知らず一たびだも此女に魂をぬかせしかと思へば、余の愚さも亦愛想が盡きたり。
 勿論無條件の遺言なれば余は「爾です、何も彼も皆貴女の物です」と答ふるに那稻は殆ど嬉しさを隱し得ず、ホク/\と笑頽ゑみくづれしが、更に又「爾すれば彼れの持て居る一切の書類なども矢張やはり私しの物ですネ」と念を推せり。
 讀めたり、讀めたり、心の底の底までも悉く余には讀めたり、妖婦め、自分より魏堂へ贈りし幾通の艷書類えんしよるゐ、若しや他人の手に渡り、身の不行蹟ふぎやうせきが世に洩ては成らぬ故、夫等それらの書類をも取返して無き者にせんと思へるなり、斯も世を欺き人を欺く事にのみ心を勞せる稀代の惡婦をなんとて此儘に許して置かる可き、復讐の爲ならずとも余は推潰おしつぶすに猶豫いうよせじ、まして余に對する彼れの罪又類無き程に重きをや、余は有りと有らゆるくるしみの手段を集め此妖婦の身に一時いちどきあびかくるも猶ほ足らずと思ふのみ、最早憐む所は少しも無く、容赦する所ろ少しも無し。


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