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 白髮鬼
 黒岩涙香
 

        六九

 讀者よ、魏堂の汚らはしき生涯は茲に盡きたり、彼れ實に余が復讐の手にて死したるなり、余が恨み是にて滿足せしとは云へ余には彼れよりも猶憎き那稻と云ふ大敵あり、那稻にあだを返す迄は寸も心を弛む可からず。
 横樣に反仆そりたふれし魏堂の死骸に余は猶ほ手先を握られて其所そのところを去りも得せず、乾きたる眼にて彼れの死顏を見るに不義の色のみ眺めたる彼れの眼は張開はりひらきてあさひに輝き物凄き見得みえなせども、僞りの外云ひし事なき彼れの口に一種の笑を浮ぶるは余に其罪を許されたる嬉しさなるや、た余の怒り一方ひとかたならざりしすさまじさに恐れ、媚び慰めて余をすかさん僞りの笑なるか、今より思ふも其に孰れなるを判じ得ざれど、余は唯だ餘りの感じに胸も板の如くになり、最早や此所このところ永居ながゐする能はず、握れる魏堂の手を解かんとするに此時始めて目に留まるはかねて那稻が彼れに贈りし余が前身の指環なり、是なん余が家代々の寶のいつなる夜光珠だいやもんどを嵌めこみし者なれば、彼れの汚れたる死骸に着け置く可からず、余は靜に之を拔取りて衣嚢ポケツトに收め、魏堂の手を離して立上り、再び黒目鏡に目を隱すに、此時醫師初め介添人一同は再び茲に寄來れり。
 孰れも無言にて魏堂の有樣をみるのみなりしがフレシヤ氏は眉をひそめ「オヤ/\縡切ことぎれと爲たのですか」と余に問へり「ハイ」と口にいだして答へては余が聲の震へんをおそる、余は唯だ重く點頭うなづきて然りとの意を示すに、次には侯爵進み出で「併し彼れは死際に充分貴方へ謝罪の意をのべたでせう」余は再び點頭くのみ。
 此間に醫師は屈みて、開ける魏堂の目をとぢさせなど樣々の手當を爲すに、侯爵は余が顏に深き惱みの浮べるを見てか余をかたへに引き「イヤ貴方はすぐにお歸り成さい、爾して葡萄酒に勇氣を附けるが必要でせう、貴方の顏色はまるで病人かと見えます、尤も決鬪とは云へ之が爲に人命がほろびて見ればたれも好い心地はせぬ者です、貴方が顏色の變る迄に彼れの死を憐むは慈悲深い證據ゆゑ敬服の外有りませんが、併しナニ今日こんにちの事は彼れに許し難い無禮があればこそ茲に至たのです、誰に聞かれても貴方の舉動に少しの悔む所も無くはづる所も有ません、唯だ貴方は少し氣を晴す爲め一週間位近縣きんけんへ旅行するが好いでせう、其間に私しが一切此事の殘務を片附かたづけて上ますから」と此親切なる慰めの言葉を聞き余はにもと思ひたれば、いづくにや旅行す可きと心に暫し考へし末、遠くも有らぬ「アベリノ」が好からんと決したれば侯爵に其旨を告げて厚意を謝し、しづかに此方こなたへと振向ききたるに、早や下部しもべの瓶藏が先程乘來りし馬車を控て待てるにぞ無言の儘に之に乘り、此所ここを立去りたり。
 馬車の上にて考へ見るに旅行は成る可く早速さつそくにするが上策なり、而も其前尼院あまでらを問ひ一應那稻にも逢置くが都合好き故、最早宿へも歸るに及ばず、此儘先づアナンジヱタ(尼院の在地あるち)に行かんものと、瓶藏に其意を云聞け、宿に歸りて余の自分の馬車を用意し來たれと命じ、余自らは其儘に馬車よりくだるに此處こゝは是れ余が家なる羅馬内莊の背後うしろなり、那稻立去りてより余が家は今如何いかんの有樣ぞ、余は立寄りて一目見度さに堪へざれば、瓶藏が馬車を整へて來る迄の間と思ひ、ひとりそろ/\と門前まで歩み行くに門の戸はとざさゞれどいつもの如く開放あけはなしもせず何とやら死人の有りし家の如くに見ゆるは主人那稻の留守なるが爲めにもや、昨夜魏堂が荒狂ひ、來りてしひて戸を叩きしは此邊このほとりなるにや、彼れが老僕皺薦を突飛してたふせしと云ふもの敷石のほとりなるにやなど其時よりの事を考出かんがへだすに從ひ心何と無く物淋ものさびしく、襟元寒く身震ひのするを覺ゆ、思ひながら一歩二歩あしふたあし、門の内へと徘徊さまよるに余の心益々沈み、高き木の日光を遮りて薄暗きは、死して行く、冥途の境涯かとも思はる、既にして眸を放てば行く手に誰やらん人の影あり、見るに從ひて其影次第に人と爲り、足を引きて余のかたに歩みきたる、誰ぞ、何者ぞ、余は怪みて問ふ力も無く、其中そのうちく顏を見れば今しも決鬪場に倒れたる魏堂の顏なり、開きし眼、閉ぢし唇旭に照して先に見し儘の有樣、胸のきずより流れいづる血の色の何ぞあざやかなる、余が顏に掛る息何ぞ夫れなまぐさきや、アヽ魏堂は確に縡切ことぎれと爲りたるに、如何にして茲に在るやと怪みて再び見れば是なん餘りに激動したる余が心の迷ひなり、魏堂の姿余が目に付き到る所に見ゆるなり、是等も一二日旅行せば消ゆる事必定なる故、余は今更恐れも驚きもせず、氣にさへも留ぬ程なるに、余が五臟の孰れにか痛く疲れたる所ありと見え、額に浮ぶ脂汗氣味惡く流れくだるにぞ、半拭はんけちを出し推拭ひて又進むに、中門ちうもんの戸も半ば閉ぢたり、余は益々死人のきやうる思ひし、自ら我が心に問へり、是れ何人なんぴとが死したる者ぞ、アヽ死したるは主人波漂なり、即ち斯く云ふ己なり、今の余は余波漂に非ず、復讐の爲め墓の中より出來いできたりたる惡魔なり、波漂は全く死したるなり、世に無き人なり、余若し波漂なりせば如何でか其昔そのむかし友とせし魏堂を殺さん、然り余は波漂に非ず、復讐の惡魔なり、白髮鬼なり、波漂も魏堂も既に殺されて世に無き者なり、殺せしは誰ぞ是れ那稻なり、あだも恨みも總て那稻より來れるもの、那稻自ら余を殺し、又魏堂を殺したるに同じ、妖婦、妖婦、思へば實に一刻だもいかし置く可からざる妖婦なりと余が復讐の念うたた強し。


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