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 白髮鬼
 黒岩涙香
 

        六〇

 盃を余の顏に叩きつくる花里魏堂の振舞は實に亂暴とも狼藉とも評し樣なし、事情を知らぬ來客は口口に「個はしからぬ」と打叫びて總立そうだちに立上り、アワヤと云ふ間に早や魏堂を取圍みぬ。余は此の鼎の湧くが如き中に、泰然とたちし儘にて先づ半拭はんけちを取り肩の當りより滴り落る酒を拭ふに、第一に魏堂の右の腕を碎くるばかりに握りたるは佛國の決鬪家ハメル氏なり、氏は迫込せきこみてらいの如き大音だいおんにて「コレ花里君、君は醉倒ゑひどれたか、氣が違たか、自分の振舞を知て居るか」と頭より噛附かみつくる。
 魏堂が怒れる面色めんしよくさながら繩に罹りたる虎に似たり、眼の光凄まじきのみならず見るうちに額の筋々すぢ/\膨上はれあがり、顏中紫色と爲り殆ど張裂くる程に見ゆ、彼れ片手をとらはれながら猶ほ余の立つ所に迫り來り、口より吐く熱き息は余の顏に火焔ほのほの如く掛るを覺ゆ、彼れ幾時いくときか言葉もいでず、唯だきり/\と齒を鳴すのみなりしが、又も怒れる聲にて「己れ人非人、己れの胸を刺通さしとほさねば置ぬぞ」と叫び躍りて余に飛附とびつかんとするを左より又取て押へしは是ぞ佛國の決鬪家彼のダベン侯爵なり。侯爵はあへて騷がぬ調子にて「だ早い、猶だ早い、コーレ吾々紳士は縱しれ程の立腹があらうとも人殺ひとごろしの罪は犯されぬ、決鬪と云ふ公明な條規でうきの無い世の中じやア有るまいし、コレ花里氏、君は惡魔にでも取附れたか今夜の主人公に何故其樣な無禮を加へる、何故、ヱ、何故!」[#底本では「」」欠字]
 魏堂はいたづらつかまれし兩の手を振退ふりのけんと揉掻もがきながら、
「何故だか彼れに問へ、彼れに問へ、彼れ自分におぼえが有る、彼れに問へ」來客は此言葉に余が何か云ふ事かと眼を余の顏に轉じ來れり。中に彼のフレシヤ氏は、
「彼れに問へとて伯爵は返事するに及びませぬ、充分の返事が有ても茲は花里氏から其譯を云ふ可き時です。」
 余は此言葉を聞流し、自ら怒を推靜おししづめたる聲にて、
「イヤ諸君、私しに問ふた處で、此のかたの立腹するのが何の爲だか何うして私しに分りませう、夫共それとも此花里氏は唯今私しの披露した夫人に對して自分で何か望みをぞくし、私しを辱しむる口實でも持て居るのか知れませんが」と云ながら魏堂を見遣るに、彼れ餘りの立腹に今にも氣絶せぬにやと氣遣はる。彼れ殆ど息の止る如き聲にて、
「何だ口實でも、口實でも馬鹿め、己れの口からア其樣な事が。」
 交際家マリナ男爵は穩かに、
「花里氏、夫は唯だ罵詈ばりと云ふもの、紳士は何處までも筋道を立て云はねば、コレ花里氏、君は一婦人の爲に笹田伯爵と云ふ大事の親友を失ふ氣か、婦人は幾等でも有る、親友は又と無いぜ。」
 余は猶ほ胸より下の酒を拭ひながら、
「イヤ若し花里氏が唯だ夫人に對する失望の爲め斯る怒りを發したと爲らば私しは深くは咎めません、年が若く血氣感けつきかんで隨分是くらゐの事は有りうちです、充分私しの謝罪の語をのぶれば、私しは彼れを許し、全く此暴行を忘れて遣ります」決鬪家ハメル氏は「イヤ伯爵、是ほどの無禮を一片の詫言葉で許すとは實に前代未聞です、貴方は心が廣過ます、人を許すにやぶさかならぬ基督きりすとさへ猶太人ゆだやじんを許さぬでは有ませんか、今夜の花里氏の振舞は許す事の出來るものと全く種類が違ひます」温和なマンシニ氏すらも「全く其通りです」と賛成せり。
 魏堂は唯怒たゞいかりのみ身にそんして其他一切の情は悉く消盡し、全身怒の固りにばけたる如く「ナニ謝罪、謝罪、反對あべこべだ、反對だ」と叫びながら、客のうちにて誰か我身に賛成する者は無きやと見廻る如くなりしが、非常の失望は非常の力を與ふるとか「ヱヽ、放せ」と高く叫びてハメル氏とダベン侯爵を拂ひ退け、有合ありあはこつぷを取りてグツと一口に呑乾のみほせしは、餘りに咽が乾きて聲さへ自由にいでざるが爲なる可し。
 斯くて彼は一直線に余が許に飛來り「嘘吐うそつ、耻知らず奴、手前の樣な人非人が又と有うか、夫人をぬすみやがツて、おれを馬鹿に仕やがツて、命を取らねば承知しないぞ。」
 余は茲に至りいさゝか滿足の想ひなり、嘲るわらひの口許に浮び來るを食止めて猶ほ眞面目なる色を示し、半ば彼れ、半ば來客に向かひつゝ「ハイ命の取遣とりやりも時宜に依ては決して辭しません、笹田折葉老體といへどもお相手致しませう、けれども花里さん、貴方から其樣に言はるゝ理由が更に私しには分りません、今申す夫人は貴方に對し少しの愛情も無く、從ツて何の約束も仕た事無く、何のはげましもあたへた事が無いのです、ひとへに自由の身で有て誰憚らず私しと夫婦約束を仕たのです、若し少しでも貴方にはげましを與へた樣な形跡が有れば、不肖折葉は直に此約束を解き、夫人を貴方に贈りませう、實に貴方の恨むのが奇怪です。」
 一同の客仁きやくじんは余の寛大なるに感ぜし如く「花里氏は餘り酷い、いやし過る」と評するも有れば「伯爵は實に聖人だ」と云ふも有り、ダベン侯爵は猶も落着き「實に聖人です、私ならアノ樣に事をわけた問答などは仕て居ません」と云ふに「勿論です」「私しでも」「私しでも」と云ふ聲は殘らずの口よりいでたり。茲に至りて魏堂の顏は鉛色の如くに青く、其眼は毒蛇の目の如くに鋭し、彼れ猶一足余に迫寄せきより「おのれは夫人が少しも此花里を愛せぬとぬかしたな、盜坊奴どろばうめ、臆病者奴人で無し奴、爾しておれに謝罪せよと云ふのか、サア己の謝罪は此通りだ」と云ふより早く彼余の横顏を痛く叩けり。
 彼れが指なる夜光珠だいやもんどの指環(即ち余波漂の指環)は余の頬に傷を附け、點々と血の流るゝに至らしめたり、一同の客人は之を見てくわつと怒り、まさに彼れ魏堂に向ひ爲す所ろあらんと見えしが、余は頬の血を拭ひながら彼のダベン侯爵に[#「ダベン侯爵に」は底本では「タベン侯爵に」]打向ひ騷がぬ聲にて「侯爵、事茲に至ては私しより花里氏への返事は唯一つしか有ません、貴方は其返事の介添人と爲り、決鬪の準備をお運び下されますまいか」侯爵は肩をそびやかし「進んで介添人を勤めませう」と云切たり。


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