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 白髮鬼
 黒岩涙香
 

        五八

 既にしての八時に至れば兼て招待せし賓客は或は二にん或は三人づゝ集りしか、其中にて唯だ二人ふたりだけは不意に急用の生ぜし爲め遺憾ながら宴に列なる能はずして丁寧なる斷り状を持せ越したり、是にて主客十五人の兼ての定めは減じて十三人とは成りたるが、も十三と云へる數は耶蘇教の古事ふるごとにて最と不吉に當ると見做され、歐米孰れの國にても忌嫌はるゝ習ひなる事讀者の既に知る所なる可し、勿論道理の上に於て十三人なるも十五人なるも少しも異なる所なく、數の爲に不吉なる事の起るなどとは全くの妄信なれども、殊に伊太利いたりやは斯る事を信ずるの國にして、若し一個の卓子に十三人の客集れば其中の一にんは必ず一同にそむくの人と爲り殺さるゝに至る可しと云ひ傳ふ、誠に愚なる云傳へなれども余は今夜の席にて余のなさんとする仕事などを思ひ合はせ、偶然にもせよ此宴席が十三人の數と爲りしは誠に不思議の事なる哉と心の中にうなづきたり、去れど氣の附ずに居る來客に斯樣の事を故々わざ/\吹聽しては大に興を妨ぐる道理なれば、余は無言にて一同を宴會のしつるゝに、茲は是れ酒池肉林、注意くまなく行屆きて人に一點の不快だも與へぬ樣に用意せし事なれば、客は唯だ見る物毎の立派なるに氣を奪はれ、頭數の不揃なるには氣も附ぬ樣子にて我勝われがちに主人の行屆けるを褒め、暫しが程は且呑み且食ひ且笑談じやうだん和氣靉々わきあい/\と室中に滿渡る程なりしが、何の爲にや次第/\に話し聲低く爲り、一人ひとり默り二人默りてはては宛も病人の枕許に通夜でもする人の如く只だ寂然ひつそりしづまりたり。
 扨は誰も彼れも口に出しては云はざれどおのづから此數に氣が附しかと余は主人の身としてひそかに心を痛むるに此時佛國の大決鬪家ダベン侯爵は聲を揚げ、
「諸君は何等の鎭り方です、是ほど結構な宴に臨み、互ひにふさぎ込で仕舞ふとは主人伯爵に對して失禮なのみならず、實に寶の山にいりながら手をむなしくすると同樣では有ませんか。今夜の樣に酒は旨く、肉はゆたかに、而も居心ゐごゝろの好い宴會は又と有る事では有ません」フレシヤと云へる一紳士其尾に附き「而も此樣に氣の合た名士のみの集會は求めても得られません」とつとめて客の氣を引立んとすれど更に引立つ樣子なく、却て益々沈むのみ、最早や詮方なし余は立上りて十三の數の忌むに足らぬを辯解せんかと殆ど其身構へするに、此時當府第一の交際家と知られたるマリナ男爵立上り「アヽ分りました諸君が益々陰氣になるは此室このへやに居並ぶ數が丁度十三で有るからの事でせう、斯樣な事を氣に掛けて此良夜を空くするとは人に聞れても我々がはづかしいでは有ませんか、文明の紳士とも云はれる者が詰らぬ言傳へを信ずるとは何事です、成る程猶太國ゆだやこく古事こじで十三人の中一人だけ敵に内通しつひに殺されたと云ふ事は有るにもせよ、夫が今夜の吾々と何の關係が有りませう、我々は彼の猶太人イスカリオとは違ひますから、此親密な十三人の中に誰が殺され、命が無くなるのだと云ふのです、皆百歳も生延る積では有ませんか」と述べ席中を見渡すに、一同にもと思ひしか「ヒヤヒヤ」とて手を打叩き、又愉快げに騷ぎいだす其中に唯だ魏堂一人は最も深く神經を痛めし如く容易には引立たず、卓子の上に置く其手先さへかすかに震ひ動くを見る、察するに彼れ其身がまさに大復讐を加へられんとする場合にまで臨める爲め、神經おのづから感應する者にや有らん。
 余は先づしゆとして彼れの浮立つ樣、種々の話を持掛もちかくるに、彼れは瓶藏が注ぐ酒の力に漸く心を取直ほし雜話をも初むるに至りしかば、是よりして席上は今までの反動にて一層の賑ひを添へ、客と客思ひ/\におのが得意の話を持出もちいだし人の言葉は耳にらず、決鬪家ダベン侯爵の如きは隣の人に撃劍の秘術を解き、口にて言盡されぬ所は實物にて示す氣か、皿の上なる小刀ないふを取り或は上段或は下段げだん、敵が斯すれば茲を突くなどと罪も無きぶたの肉をば知らず/″\寸斷ずた/\に切りたるも可笑をかし、唯だ余のみは此騷ぎに釣込るると見せながら初より一滴の酒を呑ず、心をいとも確にして機會をりきたるを待居たるに今は酒も早や充分廻り興もさかりに達したれば最早や好き時刻と思ひ、夫と無く魏堂の樣子を見るに彼れかたへの人に向ひ喋々てふ/\と那稻夫人の美しき容貌を説き誇れり、勿論那稻と云ふ名前は出さねど余の耳にはおほふ可くも非ず、茲なりと余は微笑みて卓子の小口に立上り、演説する辯士の身構へにて先づ一聲「諸君」と呼び、一同を見渡したり、是より余が説出ときいづる所を聞け。


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