白髮鬼
黒岩涙香
五七
余が廊下に出るや殆ど魏堂と鉢合せする程に出逢へり、彼れ長々の伯父の看病に顏に幾分か其顏の窶れたる所も見ゆれど、伯父の身代を我物とせし嬉しさは其窶れを推隱して猶ほ餘る程に歡びの色を添へたり、彼れ余を見るや早く打笑ひて、
「イヤ伯爵貴方のお手の行屆くには唯最感々服々の外有りません、お顏色も餘ほど若やいで見えますぜ。」
「イヤ夫は私しが云ふ事です、貴方こそ若やぎました、身代が出來ると何うしても人品が上りますよ」云ながら余は彼れを居間の中へ導き入るゝに、彼れは第一に彼の瓶藏が磨きて卓子の上に載せたる短銃の箱に目を留め、異樣に顏の筋を動かしたれども通例の短銃箱とは其作り方異にして飾立も見事なれば、短銃には非じと思ひしが更に目を轉じて余の服裝に注ぎ、
「オヤ貴方が是程のお拵へなら、賓客の席に据る私しも此の旅着の儘では出られません、幸ひ荷物も貴方の馬車で停車場から持て來たのですから次の間で着替へませう。[#「着替へませう。」は底本では「着替へませう、」]」
「イヤ夫は急ぐに及びません先づ是でも呑で緩くり」と云ながら余は常に居間の中に蓄へある古酒の口を拔き、盃に注ぎて彼れの前に置くに、彼れ咽の乾きし人が水呑む如くに呑ながら、
「實は停車場から直に那稻夫人の許へ行度いと思ひましたが貴方への約束ゆゑ。」
「イヤ那稻夫人の事は爾心配するに及びません、貴方の留守中私しより外の男は一人も夫人の傍へ近きません」彼れ安心して胸を撫で「爾だらうとは思ひますが。」
「思ひますが片時も早く顏見せて喜ばせ度いと云ふのですが、爾うお急ぎ成さるなバイロン詩伯が云ふ通り星と女は夜に入つて能く見える者ですから少々更ても構ひません。」
「夫は爾ですが」と云ひて彼れ漸く鎭りつ更に語を轉じて「今夜招がれる賓客は誰々ですか」と問ふ、
「イヤ孰れも貴方の知た人です」と云ひ余が讀上る人名は皆此土地にて交際界の達者にて、此人々に擯けらるれば高貴社會へ顏向も出來ぬと云ふ程、嚴重なる紳士達なれば、魏堂は一方に其身の窮屈を恐るるよりも此紳士達に迎へらるゝ己れの名譽を喜ぶ如く「成る程、撰びに撰んだ顏揃ひです、是ならば那稻夫人に逢ふのが遲れるのも厭ひません。」[#底本では「」」欠字]
余は腹の中にてヘン那稻夫人には逢るか逢ぬか分らぬ哩と呟きながら、來客名簿の最後に讀上る人名は、當時佛國の決鬪社會に東西の兩大關とまで噂さるゝ大の決鬪家ダベン侯爵及び中佐ハメル氏なり、魏堂は此名を聞きて色を變じ、
「オヤ/\大層恐ろしい。」
「エ何が恐ろしい、此兩君は先達て貴方が私しを紹介したでは有ませんか、其時貴方は斯る有名の人が一緒に當府に遊びに來たは殆ど例の無い事で、當府の名譽だと言たでは有ませんか、夫だから私しは招いたのです。」
「成る程夫は爾ですが、少しの事から喧嘩でも買れると困りますから。」
「ナニ今夜の席に喧嘩の種が有ますものか」魏堂は全く合點して「夫は爾です、何故か私しは此頃に至り少しの事も氣に成て變に神經が落着きません。」
「尤もです、夫人と分れて居た爲でせう、一夜夫人の接吻を受れば何の樣な神經でも落着きます」と云つて笑ふに魏堂も同じく笑ひたれど、何とやら餘韻の無き不安心なる笑ひ樣なり。
頓て彼來客人名簿を手に取て見直しながら。
「ですが伯爵、今夜の宴は唯私を歡迎する計りの爲ですか。」
「勿論です、縱や外に多少の目的が有としても總て貴方を目的です、貴方が歸ねば決して此宴は開きません」魏堂は身に餘る光榮を謝する如く額に手を當て、
「夫は私しへ餘り貫目を附過ます、迚も私しは是ほどの歡迎を受る値打は有ません。」
「ナニ値打が無い、夫は自分を踏倒さうと云ふ者です、今夜出席する紳士の内に一人として貴方を敬愛せぬは有ません、私が若しこの宴を開かねば誰か外の人が開きました、既に那稻夫人の前の所天波漂殿なども貴方を兄弟の樣に大事に仕たと云ふ事では有ませんか」と云ふに波漂の名前は神經の穩かならぬ彼れが心に最痛く應へしと見え、彼れビクリと驚きて、
「最う伯爵、後生ですから波漂の名を云はぬ樣に仕て下さい、夫でなくとも此數日間彼れの事が心に浮んで困ります。」
「夫は何う云ふ譯で。」
「イヤ伯父の死際の苦みを見て、フト波漂の事を思ひ出しました、伯父は既に身體の力も拔け、自然の衰へで死る身だのに是ほど苦むかと思へば、血氣盛の波漂が死る時には何れ程か苦い事だツたらうとツイ此樣に思ひました」然り/\波漂は死際の苦みより猶ほ死後の苦みに堪へず、夫が爲め汝に仇を復す心を起し、此通り白髮の鬼と爲り此世に來りて汝の身に附きまとへり、今現に汝の前に立つ余が取も直さず其波漂なるを知らざるか。
彼れ猶ほ語を繼ぎ、
「波漂と私しは小學校からの友達で、散歩する時なども丁度女生徒の樣に首と首とに手を卷合ひ、少しも離れぬ程でした、殊に彼れ私しより身體が一層強かツたから、死神と鬪ふ間の其苦みは非常に激かツた者に相違有りません」彼れが余波漂を優き言葉にて評するは唯だ此れが初てなり、余も異樣に神經の動くを覺えたれば、
「イヤ花里さん、此樣な話は宴會の前に不適當です、先ア着物でも着替へてお出成さい」彼れ思出せし如く「アヽ爾しませう」と云ひて立ち「本統に蟲が知すか夫とも神經の狂だか、何と無く胸に恐ろしげな感じが浮びます、何うか過ちでも無ければ好いと自分で氣遣ツて居るのです」と云ふ、成る程其顏色さへ、惡夢に魘され我聲に驚きて目を覺せし人に似たり。余は「全く伯父の死際の事を未忘れぬ爲ですよ」と評して彼れを次の間へ送り出せしが、思へば彼れ實に憐れむ可し、今まで余は唯だ彼れを憎む一方にて憐の念は露ほども無りしに、如何にも昔し學校に居し頃を思へば余と彼れは首に手を卷合て散歩したり、夫が今は是れ敵と敵、是と云ふも畢竟は那稻と云へる僞り女が余と魏堂の間に入たればこそ、之を思へば那稻の罪魏堂よりも幾倍なり、那稻さへ無りせば彼れも僞りに染られず昔の清き魏堂にして余も此世界に唯一人の世捨人とはなるまじきに、爾は云へ今更ら復る可き事に非ず、指て行く可き余が道は今日までの定めの如く先づ重く魏堂を罰し次に猶重く那稻を罰する大復讐の一筋のみ。