白髮鬼
黒岩涙香
五二
余を波漂の幽靈と思ひしも理りや、余は實に波漂の幽靈なり、墓の中より出來りて那稻に仇する者なれば、彼れ既に余が姿に魘はれし者なる可し、去れど余が眞に彼れを魘ふは猶ほ是より後の事なり、今は成る可く彼れの恐れを推鎭め安心させて置かねばならず、去れば余は柔かなる聲にて「イヱ、夫人私しは波漂の何でも有ません、似て居るのは偶然でせう」と云ひながら傍らの卓子に在る瓶を取り、其中の水を硝盃に移して與ふるに那稻は心地好げに呑乾せしも猶ほ暫しがほど無言なり。
此夜は宵の程よりして天氣稍や變り居たるが此頃に及びて殆ど嵐に爲り庭の樹々など恨を帶びて叫ぶに似、最と物凄く聞え初しかば、罪深き那稻の神經は之にすら驚さるゝ如く、彼れ恐しさに堪へぬ聲にて「其窓を閉めて下さい、其窓を」と云ふ余は從ひて窓を鎖すに、此時降出せし雨の足は斜に余の顏を拂ふ、余は半拭にて拭ひながら座に歸り、樣々那稻を慰むるに、那稻は穩かならぬ胸を撫でつゝ「アア漸と是で落着きました、自分でも餘り馬鹿げてお話も出來ませんが、本統に貴方を波漂かと思ひました、アヽ恐しいと思ひました」余は片頬に笑を浮め「私しを恐れるとは、アハヽ爾仰有ツては許婚の所天には難有い世辭では有ません」と云ひ、那稻が同じく笑ひながらも猶も氣味惡き樣子の有るを見、余は更に眞面と爲り「併し、貴方が若し思ひ直して私しとの約束を後悔なされば今の中にお取り消し成さるのは御隨意です、貴女を保護する積りの者が却て貴女を恐れさせては私しの本意に背きますから、私しは我身の不運と斷念め、唯だ今まで通りに貴女の親友で暮す丈です」那稻は此眞面なる言葉に少し驚き、驚くに從ひて其正氣も大に復りし如く、椅子より半ば起直りて「何ですネエ貴方は斯樣な事を氣にお留成ツてサ、私しの恐れたのは貴方を恐れたのでは有りません、唯だ女の愚な心から詰らぬ思ひ違ひを仕たのです、斯う約束を定めた上で假令ひ何の樣な事が有うと此幸福を取消されます者か」と云ひ侘る如くに余の手を取り、大切の寶物でも取扱かふ如くに、兩手を添へて自分の胸に推隱しぬ。余も安心の色を見せ「アヽ爾云つて下されば是に安心して今夜はお暇いたしませう、貴女は餘程神經が疲れて居ますから、早くお寢間へ退いて明朝まで緩くりとお息み成さるが好いでせう」那稻は余を見詰めて、
「オヤ天氣の惡いのにお歸り成さるの」余は勿論今までとても此家に泊りし事なし、
「ハイ夫婦の約束が出來た上は婚禮する迄世間體が大事です、宿へ歸て貴女の夢でも見ながらに眠りませう」那稻は早や慣々しく、
「オヤ憎らしいほど口先がお上手な事、是からは他所で其樣な事を仰有ると諾ませんよ」と云ひて握れる余の手を堅く締め別れの接吻を移すにぞ、余は腹の中にて此女貴婦人の名あるに似ず、賣色女にも劣らざる手の有る事よと一入愛想を盡しながらも同じく別れの接吻を復し「イザ」と其所を立去りたり。
巳にして門の外に出れば夜色、墨よりも暗くして風は帽子を飛す程に吹き、雨は頬を叩きて痛きを覺ゆ、日頃なら唯の一歩も進み得ぬ所なるに、余は今まで幾時間か、矯めに矯め、抑へに抑へ居たる我が神經の反動にて風も雨も苦には思はず、却て胸に蟠る我が怒りを誘ひ出して發散させる良藥の如くに想ひ、見る人も聞く人も無き心易さに、余は風と共に大聲を發し、或は泣き或は罵り、手を揚げ足を振廻して全くの狂人の如く狂ひ廻りて歩み去れり。思ふに此時若し此雨風に逢はず、斯くの如き氣儘勝手なる振舞を爲す事無かりせば余の不平は殆ど洩すに由なく、余は眞に發狂するか左なくとも氣盡き魂絶え、此復讐の大狂言を演じ終るに堪得ざる事と爲りしならん、漸くにして我宿の門前まで來りし頃は唯だグツたりと疲れ果て、殆ど足を引く力も無けれど、其代り我が腸を引繰返し、僞りの分子を悉く洗ひ捨たる心地して快き事云ふ可からず。頓て戸を開きて内に入れば出迎ふる從者瓶藏、余が姿の雨に打たれ風に揉れて狂人も唯ならぬを見て痛く驚き怪むにぞ、余は叱る如く目配せして廊下を傳ひ、將に我が室に入らんとする時、十圓の金貨を取出し與ふるに、彼れ益々怪みて「何かお買物でも成さるのですか。」
「イヤ其方の無言を買ふのだ。」
唯だ是だけの返事にて余は正直なる彼れ瓶藏が能く余の意を合點し、決して余は怪き樣にて歸りしを他言せぬと知れば安心して室に入り、内より堅く戸を鎖して先づ着物を改め、次に鏡に向ひて黒き眼鏡を外し我が顏を眺むるに、艱難辛苦に身を窶す人に似ず昔の波漂と同樣に肥太り、唯だ髮と髯の白くなりたる違ひこそあれ、目鼻だちより顏の色まで充分に若やぎて全く昔しの波漂なり、此向なら愈々眼鏡を外す可き時に外さば余を知る者必ず白髮鬼の波漂なるを知らん、余の復讐も思ふ通りに行はるゝ事必定なれば余は滿足の笑を浮めて寢に就きたり。