白髮鬼
黒岩涙香
四六
後にも先にも余に取りて唯だ一人の娘星子、可哀や滿三年を一期として茲に死したり、余は其死骸を我膝から卸す能はず、泣くとも無しに唯だ涙の點々とはふり落るを覺ゆ、其外は總て夢中なり。
斯る有樣を醫師は見て氣の毒と思ひしか、傍らより親切なる聲音にて、
「サア伯爵、此所を引上ませう、是で孃も最う一切の苦痛を知らぬ事と爲ました、尤も死際の心の迷ひで貴方を自分の父だと思ツた爲め左まで苦まずに終つたのは孃に取り幸ひですが、貴方は又父よ/\と呼ばれた爲め、殆ど我が娘でも失ツた樣な氣が成さるのでせう。」
「ハイ、我が娘――」と迄に言掛しも「です」と確に言切られぬ余が胸の術なさは紙にも筆にも盡された物に非ず、余は涙を呑込みつ、優しき死骸を餘温の猶冷めぬ寢臺に返し其姿を眺むるに、握り締し兩の手は父に縋りて放し難き心かと疑はれ、空しく開きたる其眼は死して後まで余の顏を見たしと思ふ爲にもや、「可愛の者」と呟きながら余は切てもの心遣に、散ばりたる其髮の毛を指で梳撫で徐に其眼を閉ぢさせるに、乳母は此時首より細き十字架を脱して之を星子の胸に置きしも、唯泣ぢやくりにて念佛の聲も續かず、暫くにして乳母は涙を拭ひ纔に「夫人へ直にお知せ申さねば成ませぬが」と云ふに、思ふ事遠慮無く打明て憚らぬ英國醫は、
「全體、孃が死るまで夫人が茲へ來ぬのが間違て居ます。枕許へ附切に附いて居る筈でせうに。」
然り/\母の身として同じ家に住ひ乍ら、娘の死目を餘所に見る那稻の如き無情の母が何れに在る、乳母は取繕らふ心にや夫とも日頃の不平を知らずして洩す者にや。
「孃樣もただ父々と仰有るばかりで、母の事は一言も仰有りません」と云ふ。余は最早や笹田伯爵たる姿を支て此所に長居する能はず、天性の波漂に返り聲を放ちて泣出し度き迄に至りしかば其心を紛らせんと醫師の肩を突き「共に來れ」と促すの意を示して立上ると醫師も直ちに立上り、余と共に婆に向ひ又來らんと云ひし儘此室を出たり。
出て廊下を、那稻の室に曲る所まで來るに醫師は余を控へ、
「夫人へは貴方が知らせて下されますか。」
「イエ、私しは自分だけで充分悲いのに、此上夫人の泣顏を見る勇氣が有ません」醫師は嘲ける顏にて、「アノ夫人が泣くと思ひますか」と云ひ更に又「イヤ、女俳優も及ばぬ程の方ですから成る程、誠しやかに泣き悲みませう。」
斯く云ながら醫師は那稻の室へ曲り行きしが、頓て室の中にて驚きて絹服の騷ぐ音は魂消る如き泣聲と共に來り、醫師の言葉も其間に交りて聞えたり、暫くにして醫師は厄拂を濟せしと云ふ顏にて出來り、「果せる哉です、泣く眞似から氣絶の眞似まで悲い狂言は仕盡しました、アノ樣な美人より醜婦の方が優ですネエ」と云ひ玄關の方を指して去んとするにぞ、余も其後に從はんとするに醫師は振向き「イヤ貴方には猶ほ夫人が何か御用が有る相です、暫し待せて下さいと云はれました。」
余は[#「余は」は底本では「「余は」]何の用なるを知らざれど、其言葉を守りて踏止り暫し階段の下を徘徊するに、[#「徘徊するに、」は底本では「徘徊するに。」]萬感胸に集りて殆ど我身が今何の所に在るやを忘れ、首を垂れて默考するのみ、其暇に誰やらん余が背後に來り、右見左見余が姿を眺むる者あれど余は夫とも心附ず、否心附ながら心茲に在らざれば自ら氣に留んともせず、猶ほも考ふるのみなるに背後の人余の注意を呼ぶ如く咳拂ひしたれば、初て余は振向見るに是なん豫てより主人波漂は猶ほ死せずと云ひて余を疑ふの樣子ある老僕皺薦なり。余は彼れの顏色を見、何と無く彼れが余の背姿にて余と見破りたる樣子なるを認めたればハツト驚きて聲も出ず、彼れ樣子ありげに余の顏を眺めながら「夫人が之を貴方に渡して呉れと仰有りました」とて一通の書附を差出せり、余が手を延べて受取る間に彼れは少し震へる聲にて殆ど獨語の如く「お可哀相に孃樣は亡なツたが、夫でも父君波漂樣の猶だ生て居つしやるのは意外の幸ひだ、爾とも波漂樣が死る筈が無い、他人は死だ/\と噂しても、其噂に釣込れる樣な皺薦ぢや無い」と云ふ。余は耳に留ぬ振にて那稻よりの書附を開き見るに、「妾は唯だ絶入るばかりに悲くなり心紊れて何事も手に附かず候まゝ何とぞ伯爵御身より星子死去の事は羅馬なる花里魏堂氏に御電報なし下され度候。」
と記せり、余の讀終るを待ち皺薦は宛も余が手でも握らんと思ふ如く一足前に進みたれば、余は豫て稽古せし最も邪慳なる聲音にて、
「夫人に、伯爵が承知致しましたと爾云て呉れ、此他何なりと唯仰せの儘に致します」と是だけ云ふに彼れ猶ほ余の顏を眺めて止まざれば「エ、分ツたのか」と叱る如く念を推すに、
「ハイ、貴方のお言葉が分ら無いで何としませう、何も彼も分りました、全く合點が行きました波漂樣の仰有る事、何事でも直に合點した事は是までとても波漂樣が御存な筈ですが」と云ふ。
讀者、讀者、此言葉を聞く者誰か又彼れが余の本性を見破り得しと心附ざらんや、余は全く忠義一徹なる彼れの慧眼に見破られたり、余が巧に計たる大復讐も是よりして破るゝやも知る可からず、余は實に必死の想ひ、茲ぞ大事の大事なれば我が聲の中にて最も荒々しき處を撰り出し、
「波漂、波漂と、死だ主人が何うしたと云ふのだ、其樣な事は聞度く無い、早く余の返事を夫人に爾言へ」と叱りつゝ容赦無く彼れの胸を突飛すに、彼れ一間ほど後へ蹌踉き漸くにして足を踏留しが、痛く余の疎暴なる振舞を怒る如く噴然たる調子にて、
「ハイ主人波漂は決して貴方の樣な無作法の人では有ませんでした」と云ひ切り更に其口の中にて「アヽ己は馬鹿だ、馬鹿だ、波漂樣とは全く違つて居る、似た樣に思ツたけれど慈悲深い波漂樣とは似ても附かず、老人を突飛して恥と思はぬ全くの似非紳士だ」と呟きたり。扨は余の邪慳なる振舞も其功あり、余を看破りたる彼れの眼を再び眩す事を得たり、余は漸くに安心し揚々たる振を作りて此所を立去りたれど、腹の中には痛く老僕を虐げたる我が非を悔いたり。