白髮鬼
黒岩涙香
三九
實に魏堂、余を嫉みて殺さんかと迄に思ひしならん、其心を白状して余に謝する樣、如何にも疑ひの重荷を卸して發と安心せし樣子なれば余は寛大に頬笑て、
「イヤ、相手を殺す氣に成る位で無くては本統の愛情とは云はれますまい、貴方の愛情が爾まで深いのは夫人の爲めに幸ひです」と云ふに、彼れ再び余の手に取附き、
「本統に貴方は人情を噛分た方ですよ、爾云て下さるので、私しは漸と胸が鎭まりました、貴方と夫人が親しげに話して居る間は實に、最う、腹が立て、人心は有ませんでした。」
「夫が戀する人の常でせう、心配するに及ばぬ事を心配し、所謂る疑心暗鬼を生じて自分と自分の身を苦めるのです、私しなどの年頃となると温かな美人の肌より、冷い黄金の手觸りが難有く、若氣の人のする事を見ると唯最う可笑しく成て來ます」魏堂は愈々落着きて一杯を呑干しつ、
「夫では伯爵、最う何もかも貴方へ打明けて仕舞ひますがネ」と云掛けて少し其聲を低め「實の所、貴方がお察しの通りです、全く私しは夫人を愛して居ます、イヤサ愛するとばかりでは未言葉が足ません、實に夫人の爲に生き、夫人の爲に死ぬる程です、ハイ唯の一刻でも夫人を思はぬ暇は無く、私しの怒るのも喜ぶのも總て夫人の顏色に由るのです、自分の心が全く夫人の心の中に溶け込んで仕舞たかと思ひます」と云ふ樣さへも眞に心の溶け込し人の如くなれば、余は冷淡に其熱心の樣子を見ながら、
「貴方の心は爾として、夫で、夫人の心は何うです、貴方を愛して居ると思ひますか。」
「思ひますか? イヤ伯爵、夫人は既に」言掛けて彼、少し顏を赤らめ「イヤ此樣な事は夫人の許を得た上で無ければ貴方に申されませんが、兔に角夫人は其所天を愛して居ませんでした。」[#底本では「」」欠字]
「夫は能く有る例さ、止を得ぬ事情の爲め其人と婚禮しても、生涯其所天を愛すると云ふ心が起らず、唯だ女の道として諦めて其所天を守て居るのは。」
「爾です、爾です。」
「夫で此夫人が充分波漂を愛して居なんだ云ふ事は、私の目にも分りますが。」
「爾でせうとも、イヽエ夫れも無理は有ませんよ、波漂は三文の値打も無い男ですもの、全體此樣な美人を妻にしたのが心得違ひですワ」余はムツと熱血の顏に上るのを覺えしも漸く堪へて、
「イヤ、波漂が何うで有うと彼れは既に死だ人です、死人の事を後で彼れ是れ評するはお止め成さい」と云ひ、ズツと嚴重な顏附にて魏堂を眺め「[#「魏堂を眺め「」は底本では「魏堂を眺め」」]兔に角も、夫人は波漂に對し女の操は守て居たでせう、波漂が此後十年二十年生ても夫人は其妻として充分妻の道を踏み、彼れに仕へる積で居たでせう、ヱ、爾で有ませんでしたか、波漂の存命中より他人に心を寄せ、波漂を欺き婦道を誤る樣な行ひが有ましたか。」
流石の魏堂も此問には幾分か氣の咎め無き能はず、其眼を垂れ小聲にて、
「イヱ、其樣な事は有ません。」
余は猶一歩攻め入りて、
「茲には波漂の父の繪姿も懸て居ますし、茲で私の問のは波漂の父が問と同じ事です、貴方はアノ繪姿に對し充分にお返事を成さい、夫人が其通り婦道を守て居たとすれば勿論、貴方も友人の道を守り、波漂が存命中は窃に夫人を愛する抔云ふ事なく、最も誠實にして居たのでせう。」
魏堂は卓子の上に置く其手先の震へるを隱し得ず「勿論です」と答ふれども其聲何うやら喉に閊え甚だ出難き樣に見えたり。余は礑と手を打て、
「夫なら貴方と夫人との戀仲は少しも非難する所が有ません、貴方は友人の道を守り、夫人は女の操を立て、互に全くの他人で居て、波漂が死でから初めて愛情が出來たと爲れば波漂に對し少しも不實な所なく、紳士貴婦人の振舞ですから、波漂も父も充分に賛成しませう、私しも賛成します、善にも惡にも總て報は有ますから、此清い愛情には必ずそれだけの酬いが來ませう、ハイ夫だけの酬を私しは祈ります」と繰返すに、魏堂は殆ど恐しげに彼の繪姿を眺めたり。
良やありて彼れ漸く氣を落着け、強て笑顏を作りつゝ、
「併し御賛成と爲らば貴方は無論夫人を愛する樣な事は有ますまいネ。」
「イヤ愛しますとも、アノ樣な美人を愛せぬ者が有ませうか、併し私しの愛するのは貴方の愛するのと違ひ、丁度我が娘を可愛がる心です、男女の愛情では有ません、尤も!」と言葉を濁すに魏堂は迫込み、
「ヱ、尤も何うしました。」
「イヤサ、尤も夫人の方から私しを愛し初め、私しの愛を求むれば格別です、其場合には男として夫人の愛に酬いぬと云ふ譯には行きませぬから」と云ひ、余は聲を放て打笑ふに、魏堂は呆れし眼にて余を眺め、
「ヱ、女の方から愛を求める、何うしたとて其樣な事が有ますものか、女は縱や愛したとしても、自分から男子へ愛を求めませぬ。」
「イヤサ是は笑談サ、唯だ私しの心持は是ほどだから、大丈夫。先づ安心しなさいと云ふ事サ」とて余は再び打笑へり。彼れも余と同じく笑ひ、
「貴方も仲々笑談を仰言るよ」と云ひ、漸く眞の安心を得し如くなれば余は立ちて、
「併し夫人が珈琲の用意をして待て居ませう、ドレ行うでは有りませんか」と是れにて彼れと手を引合ひ、此食堂を立出たり。