白髮鬼
黒岩涙香
三五
翌日は晝少し過に、余は魏堂に伴はれ羅馬内家を尋ねて行けり、行きて第一に余が耳に響きしは「好く先ア入しつて下されました」と余を迎ふる那稻の聲なり。
是れ夢か是れ實か。余は余の家の庭に立ち余の妻の笑顏に迎へられ、而も余が身のみ他人なり、暫しが程は余が心全く紊れて、見れども見えず思へども思ふ能はず、唯だ見慣たる縁側に、見慣たる庭の木の枝垂れ掛り、昔し我家とせし立派なる家、昔し我身が遊び戲れし樂しき有樣など宛も走馬燈の如く目の前に散らつくのみ。
余は機械の如く一脚歩み、又二脚と進むに連れ次第/\に我が心が我れに復り、是れ夢ならで總て現實の眞事なるを知り、忽ち胸の底よりして最と深き涙の込上來り我咽に塞がるを覺えたり。
凡そ鐵心石腸の人も時ありて泣く事もあり、其泣くや血の涙なり、余今我が心を弛め、恣まに泣くを得ば余が眼よりはふり落るは必ず涙に非ずして血なる可し、玄關も庭も座敷も木も石も余が爲には舊友の想あれど、昔の懷しき趣きを留めずして何とやら悲しみを帶びて見ゆ、主人の落ぶれ果し如くに此家の零落せるも遠きに非じ、アヽ主人、主人、誰が此家の主人なるぞト、余は窃に疑ひて傍に立つ魏堂の姿を偸視たり。
否々假令ひ此家を雨の虐げ風の荒むに任せて置き見る影も無く廢らしむとも、魏堂の如き僞りの人を主人と爲す可からず、古來羅馬内家に一人の僞人なし、主人は依然たる余波漂にして家は變らず余が家なり、去ればとて主人たる余に何の力があるや、余には家ありて家なきなり。名前まで人の名前、身に纒う美衣口に飽く珍味も、總て世人の穢はしとする盜坊の賜物なり、人にして鬼籍に在る身、既に人たること能はねば主人たること固より能はず、想へば橋の下に餓死る乞食とても余よりは富めり、余ほど心の零落し荒れ凉たるもの孰れにか有らんや。
見れば變らぬ内に變りたる所も有り、余が毎に縁の片端より動かさゞりし讀書臺は其下の深き安易椅子と共に取退られ、余が籠に入れ飼置きし小鳥も見えず、余と魏堂を迎へて門の戸を開きし余の從者も活き/\しき顏の色艷消え失せて味氣なき人と爲れり、何ぞ氣力の少くして影の薄きや、殊に余が物足らぬ心地せらるゝはイビスと名附る余の愛犬なり、個は余がハイランドの友人より贈られし稀代の名犬にして、毎も余が讀書臺の許なる縁先に寢居たるに今は其影も見えず、如何なる所へ連行かれて繋れ居るにや、余は殆ど腹立しく其邊りを見廻したり。
那稻は余の顏色を見て氣遣はしげに、
「オヤ伯爵、貴方は茲に入ツたのを最後悔なさるのですか。」
余は愕然と我に復り、
「何う致しまして、宛も亡者が初て極樂の庭に入た心地です、ハイ眞の喜びは無言です、夫人」とて其顏を眺むるに、那稻は少し羞らふ如く眼を垂れたり。魏堂は氣短かく自裂る體にて眉の間を狹くしたれど、彼敢て口を開かず。
是より導かれて廣く凉しき客室に入れば、茲には多少の變りあり、余が十四五の時作らせし余の半身像は床の間より取去られ、彼の朝廷より贈られし薔薇の鉢植も茲に見えず、其花を摘盡して其木まで枯せし者にあらぬか、唯舊時の儘なるは僞奴と那稻と並坐して彈ずるを好みし音樂臺にして、今も日々用ふると見え其葢さへも開きし儘なり、余は思はず深く嘆息し「成程舊の通だ」と口走るに魏堂は怪げに聞咎め、
「ヱ、舊の通り。」
「イヤサ、猶ほ波漂の父が生て居る頃幾度も此家に來ましたが、其頃と餘り變りません。」
是を話の緒口とし那稻は直に尾に附きて、
「では定めて波漂の阿母を御存でせうネ。」
「ハイ。」
「何の樣な方でした。」
余は此の汚れたる女の前にて清き我母の事を語るさへ勿體なき氣のせられ暫し躊躇ひしも、那稻の眼に催促せられ、
「左樣實に美しい婦人でしたが自分の美しさには氣も附ず、夫れは/\他人の事ばかり心配して善く家を治め、此内へ這入て來れば直に最う善人の住家でと分る樣でした、併し惜い事に早く亡なりまして」と云ふに魏堂は之を聞き、昨日己れが余に打明けし其淺墓なる道徳論に照してか又嘲笑ふ調子にて、
「アヽ其樣な堅い夫人は早く死るが仕合せです、永く生て居られては夫こそ所天のお荷物だ、ネヱ、伯爵。」
余は赫として眼の血走る心地したれど漸く堪へて、
「何うですか、夫人の死を惜ぬ者は無い程でした、此頃の道徳に照せば貴方の云ふ通りかも知れませぬが。」
那稻は流石に余の不快なる顏色を見て取し如く、
「イエ伯爵、魏――、花里さんの云ふ事を氣に留ては了ませんよ、馬鹿な事ばかり云まして」と云掛け、魏堂の眼の異樣に光るをチラリと見て「最も腹の中では口ほど馬鹿な事を思ツて居るのでは有ますまいが、所天波漂なども折々は本統に他人の前へ出されぬ男だと云ました。」
是れ一面には余を宥め、一面には痛く魏堂を嗜むる掛引と察せらる、斯て那稻は猶も話を外の事柄に移さんとする如く、
「ですが伯爵、貴方は夫ほど此家の人々を御存ゆゑ、娘星子にもお目通りさせませうか。」
余は高く打つ胸の浪を推鎭めつ、
「ハイ貴女と波漂の間に生れた孃さんなら、私しは自分の孫の樣に思ひます、何うぞ是へお呼成ツて。」
那稻は直ちに下女を呼び星子を寄越せと命ずるに、下女の退きてより暫くして最と覺束なき手先にて恐る/\戸を開かんとする如く、外から其引手を廻す者有りと見る間に余の娘星子は閾の内に現れ來れり。
余は一目にて星子の痛く變りしを見て取たり、余の不在は纔か百日ばかりなりしに、其間に如何なる取扱ひを受しにや、總體の樣子何と無く窶れて見え、何處にか恐れと不安心の色を留め、笑ましげなる其眼は悲くも諦めたる影を帶ぶ、凡そ斯る顏附は大人にしてすら氣の毒げに思はるゝ者なるに四年に滿ぬ女の兒が早くも此陰氣なる樣と爲るとは實に斷腸の限ならずや、余が死してより繼子の如くに待はるゝは是だけにて明かなり、況してや、知らぬ人にも能く親みし昔に引替へ人に怯える樣子あり。
室の中ほどまで出て、第一に魏堂を睨み視、敢て進まず、魏堂は笑ひながら、
「何だ惡魔でも見る樣な目で己を見てサ、今日はナニ叱らぬから茲にお出、此の方はお前の父を能知て居るよ」と云ふ。
パパの一語に少しく眼を晴れやかにし不思議にも那稻の許へ行かずして余の所に馳來り、其細き手を余の手に當たり、當し手の柔かにして且愛くるしサ、深く余が心の底までも浸透るかと疑はるゝ程なれば、余は顏色を保つ能はず、引寄せて接吻するに紛らせ星子が前額に俯向きて顏を隱せり、涙を出さゞらんとするも自ら出で、黒き眼鏡の裏を濕したれば余は心弱しと身を叱り、唇を千切る程噛締て漸く顏だけは繕ひ得たれば靜に之を上來れり、今思ふも如何にして顏だけ繕ひ得しやと自ら怪まるゝ程なり、星子は余の眼鏡をも白髮をも恐れずして頓て余が膝に上り、全く安心せし體に坐し、最と熱心に余の顏を見上ぐるにぞ余は又も我顏の頽んとするを覺えしも、那稻と云ひ魏堂と云ひ共に此樣子を眺め居る事なれば余は實に必死の想ひ息を殺して堪ふるに、星子は何故にや其の悲げなる目の中に昔の如き笑を浮め、顏中悉く嬉しげなる筋を現し、曾て父波漂に接吻せられし如く余の接吻を迎ふるにぞ、余も今は堪へ得ず殆ど玉の緒の絶ゆる思ひにて犇と我が胸に抱締めつ、又も我顏を其の柔らかなる髮の毛に推隱し、斯くしながらも那稻と魏堂が、余の樣子を怪みはせぬかと思へば彼等の姿を偸み視たり。