<<戻る  目次  次へ>>
 白髮鬼
 黒岩涙香
 

        三三

 那稻は猶ほ僞奴を退者のけものにして、一言二言余と談話せしが、初對面の席に長居は作法に非ずと見てか、早や彼れ去らんとする如くに立上れり、余は笑顏にて「本統に天女の降臨です、美しいお姿を充分には拜ませず、直に又お歸りですか。」
 那稻も同じく笑顏にて、
「ハイ、其代り貴方のお約束を當にして歸るのです、明日みようにち若しお出が成らねば天女はばちを當てますよ。」
 余は何も彼も復讐の一念にて忘れし中に唯だ余は娘星子の事のみは猶ほ氣に掛り、不實なる其母を見るに附け、星子の安否が益々聞き度ければ、夫と無く言葉を廻し「オヽ花里さんから聞ましたには、波漂殿に娘御がお有成ツたとか云ひますが。」
 那稻も初めて思出せしと見え、
「ハイ本統に能く波漂に似て居ますよ、明日お出に成ればお目通を致させませう」と云ひ、更に無量の意味ある眼と共に「きつとお出なさいよ」との一語を添へ、再び其手を余の前に差出せり。
 余は最早や其手を握るに何のおくれを取らぬのみかは、猶ほ一際の大膽を加へ取上て唇を其甲に推附るに那稻も之を怪まず、其儘にして余の黒目鏡を眺め居たるが、餘り永きは作法にそむくと思ひしか、頓て其手を退きながら、
「アヽ貴方はお目がお惡いと見えますネ」
「ハイ長く熱帶の日光に射られました爲め、夫に最う年も年ですから。」
「エ貴方はだ其樣なお年とは見えません、私しの目から見れば大層お若い樣ですが」と是は滿更の世辭で無く、血氣さかんな余が頬の血色を見て寧ろ怪げに問ふに似たれば、余はわざと驚きて、
「此樣な白髮頭でも猶ほ若いと仰有るか。」
「若くても白髮の人は幾らも有ります、禿はげた頭は婦人に厭がられますけれど、白髮は却て尊敬されます、私しなども尊敬する一にんですよ。却て髮の毛の黒い方より氣が許されます……頼母たのもしいと思ひます。」斯く云ひながら早や閾の所までいでたれば、余と僞奴と其右左みぎひだりより手を取りてたすけ行かんとするに、那稻は僞奴を捨てゝ余の手に縋り、外にいでて馬車にのぼるまで總て嬉げに余の腕を杖とし居たり。
 余も僞奴も馬車の影見えずなるまで見送りて再び畫室へりたるが、見れば僞奴の顏、先程のゑましげなりしと打て代り、眉と眉の間と狹くなり、餘ほど氣に掛る事の有る如く物も云はで茫然と考へ入るのみ、讀めたり讀めたり、彼は那稻が己れの手を捨て殊更に余が手を撰びし爲め、早や腹の中に嫉妬と云へる毒虫生じ、チクリ/\と彼れの心をすと見えたり、斯も淺果あさはかなる男ならば、余が復讐は益々易しと余は心に祝しながら、
「コレ花里君、何を其樣に考へます」と云ひ、其肩に手を置けども彼れ唯だビクリと動きしのみ、猶ほ何の返事も無し。
 余は一本の葉卷を取り、
「オヤ/\是はきつふさぎ方だ、先ア是でも燻らせ成さい」と彼れに與へ「全體アノ樣な美人を見て何故其樣に鬱ぎます、眞に絶世の美人です、私しは唯だ一度逢たばかりで心が清々せい/\と仕て來ました。」
 彼れ煙草を呑もせず、唯だ指先に捻るのみにて殆ど忌はしげに余の顏を見、
「だから私しが前以て爾云て置ました、開闢かいびやく以來是ほどの美人は無いと、ヱ、美人嫌ひと云ふ貴方だけれど、全く心醉して仕舞たでは有ませんか」と云ひ猶ほ嘲ける如く「貴方は餘ぽど心の確な方だらうと思て居ましたのに」豈圖あにはからんやに非ずとの意は充分に明白なり、余は少し驚きたる顏色がんしよくにて、
「オヤ、私が心醉したと仰有るか、まだ心醉は仕ない積ですが、兔に角非常の美人と云ふ點は全く貴方に同意です」彼れは少し鋭く、
「同意だから、夫から何うしたと仰有います。」
「イヤ同意した丈の事で夫からは未だ何とも言ひません。」
 彼れ暫し考へて、佶と余の顏を見詰め、
「ですから言はぬ事では有ません、此後は餘程用心ならさぬと了ませんよ。」
 余は合點の行かぬふりにて、
「ヱ、用心とは何を。」
「イヱサ、那稻夫人について。」
「那稻夫人に就て何を用心するのです、アレ程の美人でも何か險呑な所が有りますか。」
「イヤさう云ふのでは有ませんが、初對面の人へアノ樣に慣々しくするのは夫人の癖です、癖と知らずに大抵の人が何にか自分ばかり特別に夫人の愛を得て居る樣に思ひ、飛だ思違ひを致しますから。」
「ヘヽエ、其樣な事が有ましたか。」
「イヤ未だありは仕ませんが現に貴方でもサ、交際上一通りの世辭を眞實の言葉と思ひ、深入をする樣になると」最と遠廻しに言來るを余は初めて合點行きし如く、
「アヽ其樣な意味で夫を用心せよと云ひますか。[#「云ひますか。」は底本では「云ひますか」」]是は可笑しい、私しが此年で夫人の愛に迷ふなどと、コレ花里さん其點だけは充分に御安心なさい、心配する丈け無益です、夫人の目から見れば、私しは全く父とも云ふ年配ですが。」
 此誠しやかなる言葉に彼れ少し安心せしも、猶ほ注意して余の顏を眺めながら、
「でも夫人は貴方を見て、爾う老人には見えぬと云ひ、猶ほ色々の事を云ひました。」
 余は腹の中にて彼れの心配をいと面白く思ひながら、
「サア夫が交際上の世辭と云ふ者では有ませんか、夫を誰が眞に受ませう、最も夫人とても所天に分れて間も無い事で頼少ない身の上ゆゑ、宛も父が我子を保護する樣に夫人を保護してあげるかも知れませんが貴方の氣遣ふ情夫の樣には決して成ません。夫人が若し情夫でも持つ程なら第一貴方を撰みますよ、貴方こそ夫人に似合しい美男子で、私しと比べ者に成ませうか」彼れ漸く落着て極りの惡さを隱さん爲め、初て前の葉卷を燻らせ宛も言譯する如く、
「イヤ實は波漂の生て居ます中から、波漂が私しを兄か弟の樣に見做し、夫人と私しの間に殆ど輕重を附ぬ程でしたから、從ツて私と夫人の間も全く兄妹の樣に成ました、波漂が亡く成て見れば私しこそアノ夫人を我妹の樣に保護して遣らねば成ません。夫に夫人が御覽の通り年も若く隨分身を誤り兼ぬたちですから、夫ゆゑ私が非常に氣を揉み、貴方に迄も用心成さいと云たのです、分りましたか。」
「ハイ、能く分りました、無論の事です。」
 余は眞面目に頷きたるが、眞に能く分りたり、彼れの意は己が畑にすきるゝ密獵者を防がんとするに在るなり、彼れに取りて當然なれども、彼れ自身既に密獵者にして主人を追退おひのけ、自ら主人と爲りたる者なれば眞實の畑主たる余に取りては少しも當然の事に非ず、余が腹の中には別に余だけの思案ありとは彼れ密獵者知るや知らずや。


<<戻る  目次  次へ>>


目次へ戻る