白髮鬼
黒岩涙香
二三
練が罵る聲に唯一人も應ずる者無ければ練は益々腹立しさに堪ぬ如く、一際聲を張上げて「コレ、其所に居る、ビス、カルダイ、照子からの言傳が有る、サア茲へ來い、茲へ來い」と呼ぶ、余はビスカルダイと云ふ名前を聞き、扨は此群衆の中に誰か斯る名前の人ありて、練が今罵れるは余にあらで即ち其人なるかと初て少しく安心し、此方彼方を見廻すに、余より纔に二三人隔てゝ立てる年三十近き一紳士、顏に賤みの笑を帶び、徐ろ/\と歩み出て練の傍に行き「オヽ海賊、到頭捕縛せられたな、手前の樣な奴に何も聞く事は無いが、餘り高い聲で罵るからサア聞て遣る、此ビスカルダイに何の用事が有る」と云へば練は返事する前、先づ廣く口を開き、件の紳士の面體にパツと唾を吐掛けたり、紳士は嚇と怒り「己れ」と言樣飛掛らんとするに憲兵が其間に立ちて、早くも練を捕へ「コレ何をする」と制するに、練は心地好げに打笑ひ、更に又紳士に向ひ、「サア飛附くなら飛附て見ろ、練は兩手を背中に廻し、此通り縛られては居るけれど、手前の樣な惡人を一人や二人蹴殺すは譯も無いぞ」と云ひ、猶ほ紳士が忌はしげに手拭を出し顏の唾を拭ふを待ち、
「手前は己の手下で有ながら、己の面がノツペリと綺麗な所から、譯もなく己の妻照子を盜む事が出來ると思ひ、己の目を盜では照子の傍に近寄り、徐々照子を欺し掛たが其手際は何うで有つた、今まで手前一人で無く照子に心を寄せた者は幾等も有るが、皆其思を遂ずして照子の懷劍に殺された、手前は猶も推強く照子の心の動かぬは全く己と云ふ邪魔者が有る爲と思ひ、己を無い者にする積で終に其筋の狗と爲り、憲兵を案内して己の隱家へ攻入らせ、此通り己を捕へさせた、定めし手前は嬉しからう、是で照子を天下晴れて我物にする事が出來ると思ふだらう、コレ卑怯者、能く聞け、練は海賊でも他人の妻は偸まぬぞ、物を盜んでも、持主の目を掠め誰も知らぬ間にコツソリと盜む樣な卑怯な振舞は未だ仕無い、同じ惡人でも男らしい惡人だ、夫だから操を立る女も有る、サア手前は最う己を除き之から照子を我物だと思ふだらう、我物か我物で無いか、今夜にも照子の許へ行て見ろ、照子は化粧して手前の來るのを待焦れて居る、爾サ身體は紅の樣な血に染り、頭挿の樣な懷劍を胸に刺し、恨を帶た貞女の死顏を手前に見せ度いと云て居た」此の毒々しき言葉にはビスカルダイ打驚き「ヤ、ヤ手前は照子を殺したな」「己が殺す者か、己は照子に向ひ、己が捕はれた其後はビスカルダイの世話に成り、己の事は忘れて呉れと諭したけれど、照子は其樣な根性の腐つた女では有ませんと言ひ、自分で胸を刺通した事は茲に居る憲兵が見て知て居る、嘘と思へば己が隱れて居た山の中に行て見ろ、照子の死骸が恨し相に手前の顏を睨むだらう、殺された者か自殺した者か、一目見れば分るから」と云ふ、ビスカルダイと云はるゝ男は殆ど立つ足も定らぬ如く蹌踉きて憲兵の背後に退きたり。
余は此樣子を見て心に無限の感を起し、海賊に情を立て海賊の爲に自殺する程の貞女が今の世に存するやと私に嘆息を洩せしが、又思へば斯る事考ふ可き時に非ず、海賊練が罵りしは、全く今のビスカルダイなるも、其前に「貴樣の姿は己にも見破る事が出來ぬ」と云ひしは確かに余の事なりしに相違なし、此上彼れより何か云はるゝ事ありては憲兵の疑ひも恐しげなれば立去るに如く事なしと、思ひながらも又彼れを顧みるに彼れの眼は再び余の顏に在り、何やら物言度げに目配せする如くなれば、余は逃るとも事既に遲きを知れり、一層の事大膽に吾より進みて危きを冒さば却て憲兵の疑ひを拂退くるに足らんかと、先づ衣嚢を探りて、五法の錢を取り、之を憲兵に握らせて「少しの間海賊と話を仕たいと思ひますが」憲兵は怪げに余を眺めしも余の胸には赤短劍の符牒も無く、外にも怪む可き所なければ、唯だ奇を好む一心より出る者と見て取し如く「長い話は許されません。」
「ナニ一言です。」
斯く云ひて余は臆する色も無く練の前に立ち「余は羅浦五郎と云ふ者の友達だが、何か彼れへ言附が有れば傳へて遣う」海賊は穴の開くほど余の顏を眺め小聲にて「分らぬ、分らぬ、何うしても分らぬ、アヽ此黒い眼鏡を取れば必ず分るけれど」と獨言たり。
果せるかな、彼れは余を見て手下の一人が旨く姿を變居る者と思へるなり、頓て彼れ當然の聲と爲り、「アヽ羅浦五郎か、練は愈々惡運が盡きたから、殺された後で、一片の囘向でも仕ろと地中海の船頭達へ傳へる樣に羅浦五郎へ言て呉れ」斯く言ひて彼れ再び小聲に成り「貴樣は秘密を知て居るだらうな」と問ふ、秘密とは何の秘密ぞ、勿論余の知る所に非ず、察するに彼れ此問にて余が眞に己の手下なるや否を試さんとの心ならん、余は忽ち思附く事あり、「知て居る、墓窖、墓窖」と答ふるに、練は滿足の體にて「アヽ那の儘地の底で腐らせるは惜い者だと思て居た、貴樣が知て居れば夫で好い、人知ず取出して貴樣の隨意に使ツて仕舞へ」此一言にて余は全く彼の大身代を練より遺産として貰ひ受けし者なり、余が嬉しさを推隱さんとし猶一言を答へぬうち、
「だけれど貴樣の姿が餘り能く變り過て己には分らぬ、貴樣は誰だ。」
「誰でも無い、秘密を知る一人サ、己より外にアレを知る者は無いから分て居るぢや無いか」余は斯る大膽不敵なる返事が如何にして余の口より出しやと我ながら怪む程なり、彼れ「多分貴樣だらうとは思ツたけれど」と言ひ、其後を繼がぬうち憲兵は余と彼とを引分たり、勿論是等の問答は小聲にて且つ早口なりし爲め憲兵の耳には入らず、余は猶ほ我身に恐るゝ所が無きを示す爲め「伯爵笹田折葉」の名札を取り憲兵に示すに彼れ恭々しく默禮し、其儘練を引きて去れり。