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 白髮鬼
 黒岩涙香
 

        一九

 余は冷笑あざわらふ調子にて、
「貞女と云はれる女ほどあてにならぬ者は無い、皮膚うはべは貞女で内心は飛だくはせ者が多いから」と云ふに船長は熱心に、
「所が照子に限り決して爾で無く、上部うはべも内心も全くの貞女です、既に先日もネ、練の手下に有名な美男子が有り、夫が照子に思ひを掛け、練の留守を見圖ひ、何か一言、照子の耳に細語さゝやいた相です、スルと照子は返事もせず、兼て練から貰ツて居る懷劍を取るより早くわたしの心は此通りだと云ひ其者を刺通しました、もつとも其者は未だ死切らず半死半生で居ます所に練が歸り、其事を聞て直に其者に十々滅とどめを刺したと申ます、ヱ旦那、荒熊の樣な恐しげな顏容かほかたちの上、而も、海賊まで働く樣な惡人だのに、夫へ又操を立てる妻が有るとは實に不思議では有ませんか、おまけに、其女が貴族の奧方にでも仕度いと云ふ程の美人ですゼ、練などの妻にして置くは勿體ないと思ひます、尤も爾う操が正しいから練が自分の妻にして居るのです、若し操が腐ツてれば幾等美人だとて妻には出來無いぢや有ませんか、男の身として妻に欺かれる樣で何うして勘辨が出來ませう、殊に練は氣の嚴しい男ですから少しでも怪い妻なら直に殺して仕舞ひますワ。」
 アヽ天地にいれられぬ海賊でさへ妻には眞實に愛せらると云ふに、余波漂は何が爲に妻と親友とに欺かれ、生て此世に住む甲斐も無き不幸の身とはなりたるにぞ、余は殆ど涙の雨の目に湧き出んとするを漸く止めて。
「夫は何しろ感心な女だなア。」
「別に感心では有ません、夫が當前あたりまへでせう、おのが亭主の目を掠める樣では女で無く怪物です、殺す外は有ません、唯だ併し、其照子と云ふは年も若く練と比べれば丁度親子ほど違ひますのに、少しも練を厭がらず、却て練を愛するのを自慢にするかと思ふ程です。」
 余は益々不愉快なり、聞くに從ひ愈々我が妻那稻の憎きを思ひ、自然に言葉まで荒々しくなりしと見え、船長も好い加減に切上きりあげて己がへやへと退きたり。
 余は唯だ一人と成り、話相手とする者も無きを結句心易き事に思ひ、是より又腹の中にて復讐の手段を温習をんしふするに、然り/\余は痛く我妻と友に欺かれたり、其代り痛く彼等に復讐せん、余は紳士なり、貴族なり、文明世界の男子なり、世の俗人とひとしく怒に乘じて一おもひに敵を殺す如き味も趣きも無き唯だ殺伐なる復讐を爲す可からず、紳士の如く貴族の如くた文明の人の如く、研きに研きたる綿密なる復讐を要す、手を切らるれば手を切返せ、目を潰さるれば目を潰し返せ、名譽をきずつけらるれば名譽を傷けて返せ、是が復讐の眞の原則なり、此原則を一歩も外さず、己が害せられし通り彼等を害して返し、己が辱しめられし通りに彼等を辱めて返さねばならず。
 唯だ此の復讐の邪魔になるは余が娘星子なり、余が今まで餘りの腹立しさに殆ど星子が事を忘るゝ程なりしも、船の中にて波の音を聞ながら緩々ゆる/\と考へ見れば其母那稻には罪あるも星子には何の罪なし、さればとて母なる那稻を苦むればひいて娘の星子をまでくるしむるにあたらざらんや、何とか星子だけ復讐の戰場より救ひいだす工夫は無きや、余は此の事をのみ只管に考へ廻すうち、忽ち又た最と忌はしき疑がひを起し來たれり、アヽ星子、是れ果して余が子なるか、表向き余が子なるも實は魏堂の汚れたる胤にあらぬか、アヽ憎し忌々し、阿父とゝさんや阿父やと余の首に縋り附きし彼の細き手も、思へば僞りの手なりしか、爾とも心附ずして夫のみを苦勞とせし我心のおぞましさよ、アヽ今は何をか厭はん、星子も同じく敵の端なりと余は殆ど兩の拳を握固にぎりかためしが、又篤またとくと考へ直せば、否々々いな/\星子は何うしても余の娘なり、羅馬内家の立派な血筋を引けり、第一星子が那稻の腹に宿りしは婚姻から二ヶ月目にして、魏堂と那稻と通ぜしは夫より一月も後なりしと魏堂と那稻の問答にて明かなり、魏堂は確に余が婚姻より三月を經て初めて那稻の耳に細語くの折を得たりと云へり、夫のみならず、那稻も亦魏堂の前にて余を指して星子の父なりと云たり、且つ若し魏堂の胤ならば、彼れ幾分か星子を愛し痛はる可き筈なるに、彼れ少しも痛はるごとき樣子[#「如き樣子」は底本では「妃き樣子」]なし、唯だ星子の生れしとき一度其額に接吻きつすせしを見たれど、其後は少しも愛情のてうなし、今より思へば彼れ寧ろ那稻の腹に余の種の宿りしを嫉しく思ひしかと疑はるゝ節も無きに非ず。星子は何うしても余の子なり。其母と母の姦夫に仇を復すとも星子一人は助けざる可からず、好し、好し、復讐の以前に於ては獨り星子を救ふに難けれど、其復讐の濟み次第、余は充分に厚く星子を育つる手當せん、星子を思ふ愛の爲に復讐のほこさきを鈍らしむ可からず往古の勇士戰場に向ふ時は家を忘れ子を忘れしとかや、余は復讐の戰場に上る者、星子を忘れずば有る可からず、やむを得ぬ場合と爲らば星子を刺殺さしころしても復讐の目的を貫かん、讀者余の復讐の決心は實に是ほど強かりき。
 是より船中には別に記す可き事柄なし、風のじゅん甚だよかりしかば此翌日午後の六時、早くもバレルモの港に着きたり、着きて錨を卸さんとする折しも、小船にて漕寄する幾人の警察官、宛も罪人を追ふ如く此船に取縋りて會釋もせずに上り來れり。扨て此船のうちに誰か捕縛さる可き人でも潜みるにやと、余が怪む間も無く、眞先に進む警察官は「サア此船だ此船だ。[#「此船だ。」は底本では「此船だ」」]海賊王輕目郎、練をゲータの港かテルミニへ送つたは此の船だ」と打叫べり。


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