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 白髮鬼
 黒岩涙香
 

        一七

 是よりして、余は復讐の惡魔なり、余の肉は鐵、余の血は毒、鐵は鎖の如く姦夫姦婦の身を縛り、動く事もにぐる事も出來ざらしめん、毒は一滴、一滴、彼等の口にり、徐々と苦しめて、彼等を嬲殺しより猶ほ恐ろしき目に逢はせん、其工風行はれ難しとは云へ、復讐の外に用事や目的も無き余が身なれば行はれずと云ふ事あらんや、余は我が一念の甚だ強く、我が恨の甚だ深きを見て、必ず行はるゝを知る、行はるゝ迄はたふれても猶止まぬを知る。
 余が立出たる後に彼等二人は何を爲せるや、天地の廣くなりたる心地にて誰憚らず不義の樂しみに耽るにや、否々いな/\那稻は魏堂より猶立優るれ者にてあくまでも世間體を作り、人の口端に係るを厭い、魏堂に當分足を拔けと勸めたる程なれば、今夜魏堂を引留ひきとむる事は無からん、魏堂或は我より先に立去しが、夫とも余の後なるか、孰れにしても召使などに怪まれぬ樣歸り去る相違なし。
 余が斯く思ひながらまさに町の入口に掛らんとする折しも、余が目の前、三間ばかりの所に、余が兼て嗅覺かぎおぼえある香氣高き余の煙草を燻らせながら、月にうそぶき面白げに歩み行く一人あり、能く見れば彼の魏堂なり、彼れ余が外國より取寄せ置きたる卷煙草を、我物顏に、否余の妻をまで我物顏の男なれば煙草ぐらゐは云ふにも足らねど、夫でも余は益々癪に障れり、彼は余が家を己が家とし、早や羅馬内家の財産を容赦なく那稻の手より取てつかへる事思ひやらる、彼れの歩みぶり、何ぞ夫れ安樂にして、彼れの樣子、何ぞ夫れ樂げなるや。彼は今より六月を經て公然那稻と婚姻する目算なれば、六月後の幸福を取越して今より既に心浮き、氣昂きあがれる者なる可し、己れ曲者と聲掛けて余は彼の喉に飛附き度し、捻伏ねぢふせて彼れの頭を碎き度し、斯くせば彼に對する復讐だけは先づ終り、後は那稻一人と爲る故、苦める事は最と易し。アヽ飛打とびかゝらんか、飛掛らんか、余は殆ど筋張すぢはり肉動きて自ら制し兼る程なりしかど、我腹の中に疊みある復讐の大手段を考へ見れば、斯る俗人の仕方にて滿足すべきに非ず、今は知らぬ顏にて彼れを遣過やりすごし、時の到るを待たねばならず、余は必死の辛棒しんぼうにて横道に入り、この夜は水夫のねむる如き相當の宿を求めて眠りしが、心も身體も痛く疲れての上なれば、夜の明るまで夢をも見ずに熟睡したり。
 讀者よ。余の復讐には莫大の運動をえうす、又多少の月日も要す、羅馬内家の身代は他人の物同樣に成りたれど、余は幸ひにも彼の墓窖はかぐらの中に海賊輕目郎かるめらうねりの大身代あるを知る、通常の場合ならば盜賊の財貨たからに手を附くる事もとより好ましからざれど、余は復讐の爲、義理も世間も遠慮會釋も總て忘れ、假にも復讐の助けとならば、如何ほど否な事たりとも厭はじと思へる身なり、今更ら何ぞ海賊に義理立せんや、畢竟神か惡魔かが余の資本もとでにせしめんとて、余に引き合せしも同樣の財貨たからなり、余は彼の財貨を取り、暫く孰れの地にか旅行して充分の用意を調とゝのへ、然る後に歸り來らん、然り是が余に取りて唯一つの道なり。
 余は思ひ定め、翌朝少しばかりの道具類を買調かひとゝのへ、[#「研のつくり」、第3水準1-84-17]たづさへてひそかに又かの墓窖へ入込いりこみたり。
 赤短劍の大寢棺は余が一昨夜見し儘にて、無數の寶は余の取出すを待てるに似たれば、余は其中より使ひ易き紙幣と銀劵ぎんけんのみを取出すに、水夫の携ふる大形の手カバンへ一杯に詰込みて猶ほ半分も四分の一も取る能はず、何しろ多きだけ益々都合能き譯なれば少し面倒臭けれど十圓百圓千圓など云へる大札おほさつと、大劵のみを擇取よりとり、カバンの張裂ける程に詰たり、其額そのたか五十萬圓ほども有らんか詳しく數へも切れず、其外このほかに當座の旅費にと小札こさつにて幾百圓、之は左右の衣嚢に捻込み、猶ほ思ふ仔細も有れば、珠玉寶石などの中にて最も立派なる物を一袋ほど取出し、是だけ有らば如何なる事業にても意の如くならんとひとり頷き、殘る寶は再び棺の中に納め、元の通り葢をして縱しや海賊ねりあらためにきたるとも外からみては分取られしと氣の附かぬ樣、葢にも初めの通り釘を打合せ、凡そ五時間を經て、漸く穴の外にいでたり。穴の出口も余が爲めには大事の秘密、人に悟られては成らぬ故、是も、練より他の者へは決して分らぬ樣に塞ぎ、猶ほも復讐の工風を胸の中にてみがきながら此所を立去りたり。
 是より指して行くは孰れの地ぞ、別に是と云ひ目指す所は無し、唯だ當分の中、此土地の人に見られぬが肝腎かんじんなれば、出る船の都合次第何所までも旅立せんと、旅費に困らぬ氣易きやすさには深く考へるには及ばず、先づ港を指して行き波止場にて彼方此方を見廻すに、出船入船多き中に、最も人の目に立たぬ小型の帆前船ほまへせんあり、今直ぐに錨を拔きて出發する樣子なれば、船長に聲を掛け何地いずちへと問へばパレルモ行なりと答ふ、乘せてと乞へば荷物船にもつぶねにて客を載せる船に非ず、從つて客室きやくま設無まうけなしと云ふ、余は最も氣に入りたり、斯る船こそ世を忍ぶ身に屈強なる隱れ場所なれば、數多あまたの船賃を差出さしいだして漸く船長を承知させ此船に乘込たり。是がまづ復讐の第一ていと云ふべきか。


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